8月 浴衣

 浴衣を着るのなんて何年振りだろう、と考えながら目を覚ましたら、隣で真輝が咳き込んでいた。こちらに向けられた背中は大きく丸まっていて、苦しげな呼吸と共に肩が小刻みに上下していた。



「大丈夫かよ」

「ごめ……ゴホッ、俺ちょっと、ゲホ、のど、いたい、かも」



 咳の合間を縫って言葉を発した真輝の顔を、上から覗き込む。伏せられた目元は虚ろで、額には冷や汗をかいている。ごっそりと表情の抜けた頬はずいぶんと青白い。



「体温計持ってくる」



 俺はベッドから抜け出して、カーテンレールに引っ掛けてある巾着を開いた。薬や絆創膏の合間からひやりと冷たい体温計を取り出して真輝に渡し、その足でキッチンに向かってグラスに水を汲む。



 出窓のカーテンの隙間からは、強烈な朝日が細い筋となって差し込んでいた。今日もずいぶんと暑そうだ。布を引いて覗けば、花火大会にふさわしいよく晴れた空が見えるはずだ。



 ベッド脇に戻り、体温計を脇に挟んでじっとしている真輝に呼びかけると、彼はだるそうに上体を起こしながらグラスを受け取った。「ありがとう」とつぶやいて傾ける。なんの味も感触もない液体すら喉に引っかかるのか、眉間にきゅっとシワが寄る。



 やがて、ピピ、と急かすような電子音が聞こえた。自分の脇からこわごわと体温計を抜き取った真輝が、申し訳なさそうに唇を噛む。



「ごめん。八度ある」



 向けられた小さな液晶には、38.3の表示があった。気の毒に、と俺は考える。解熱剤と風邪薬と痛み止め、どれを与えるのが適切なのだろう。



「待ってろ、薬取ってくるから」



 枕元を離れようとして背を向けた瞬間、Tシャツの裾をむんずと掴まれた。そのまま強く引かれて、思わずベッドの上に尻もちをつく。「真輝」と振り返った先で、子犬のような黒目が悲しげに揺らいでいた。



「ごめん」

「いいって。具合悪いんじゃ仕方ない」

「でも浴衣……せっかく買ったのに」

「来年着ればいいだろ」

「理玖は来年も、俺といてくれるの」



 驚いて、真輝の顔をまじまじと見つめてしまった。熱に浮かされ、柔い部分が剥き出しになった顔。滅多に見せない不安の色が、少し焼けた肌に濃い影を落としている。



「いるよ」



 そっと背中に腕を回すと、真輝は「そう」と微かな声で相づちを打った。俺の肩口に何度か額を擦りつけたかと思うと、途端にのしかかってくる重量が大きくなる。



 子どものような寝息を聞きながら、俺は真輝をベッドに慎重に寝かせた。汗ばんだ肌に張りついた前髪を避けながら、充電器につなぎっぱなしだったスマートフォンを手に取る。



 病院は、やっているだろうか。

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