5月 あなた

「起こしてくれてよかったのに」



 俺がはたと目を覚ました時、理玖はキッチンに座り込んで本を読んでいた。



「うん。でも、俺もこれ読んじゃいたかったから」

 ちらりと顔を上げた理玖は、そう返事をして再び本に目を落とした。ぱら、とめくられたページを見れば、最後まであと数ページというところだろうか。



 真剣な表情を横目に、冷蔵庫から昨日の残りのハンバーグを取り出して電子レンジに突っ込む。今日の食事当番である俺が炊くはずだったご飯は、もう理玖の手によってセットされている。



 日中の仕事の疲れで、珍しく夕方寝てしまった。ほんの三十分、うたた寝のつもりだったのが、もう二十一時である。



「面白い?」

「ん? うん」

「『斉藤さん』だっけ」

「そうだよ」



 三月頃から理玖にミステリー小説をおすすめしているのは、『斉藤さん』という男性の先輩らしい。歳は三十くらいで、背が高くて、豪快な性格。理玖の会社の営業担当。



 チーンという電子レンジの音。



 調理台下の引き出しから箸を出して、茶碗に白米を盛る。



「お待たせ」

「サンキュー。俺もちょうど読み終わった」



 本を閉じて立ち上がった理玖が、ふ、と小さく笑った。



「妬いた?」

「……そりゃ、まあ。ちょっと」

「そう」



 触れるだけのキスがひとつ、唇に落ちる。



「いつまでも妬いてて」



 ほとんど吐息のような囁きが鼓膜を揺らした。くるりと踵を返して、理玖は調理台横の出窓に文庫本を置いた。



 少年のような背中に手を伸ばす。いつもより力を込めて、しっかりと抱きしめる。



「理玖」

「なに」

「大好き」

「うん。知ってる」



 部屋着の白Tシャツの襟元を引っ張って、ワイシャツでギリギリ隠れるところに痕を残す。俺はもう大人だから、見えるところにキスマークなんかつけない――嘘だ。うっかりして、ちょっとだけ位置がずれてしまった。もしかしたら気づかれてしまうかもしれない。



 そう例えば、うんと背の高いやつが、こいつの首筋を上から覗き込んだりなんかしたら。



「はは、可愛いやつ」



 少し困ったような声で笑って、理玖は俺の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。高校の時を思い出した。あの頃からずっと、俺は理玖に振り回されっぱなしだ。



 ずっと、そのままでいてほしい。いつまでもそのままで。ありのままのあなたで。



「そのままがいい」



 気がつけば、口にも出していた。ほとんど祈るようなつぶやきだった。



「え、やだよ。飯冷めるし」



 照れ隠しにも似た、冗談混じりの口調が愛おしい。ずっと聞いていたいと思った。それはもちろん、一番近くで。

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