5月 麻婆豆腐
山椒のすっきりとした辛味が爽やかに鼻腔を抜けていった。フライパンを鮮明に埋め尽くす赤に豆腐を放り込んでいると、ぽすりと軽い何かが背中にぶつかってきた。
「どうした?」
振り返らなくてもわかる。理玖だ。腹に回された腕にぐっと力がこもり、細い黒髪が耳元をくすぐる。
「んー、別に」
ひとしきり俺の肩口に額を擦り付けて、理玖は離れた。「ご飯よそって」と声をかけると、素直にうなずいてしゃもじを手に取る。
「俺さ、真輝の作る麻婆豆腐好きなんだよね」
そう呟く理玖の手元で、程よく炊けた白米がなだらかな丘をつくった。揃いの青い茶碗は、半年前ここに引っ越してきた時に駅近くの家具屋で一緒に買った物だ。
「即席だからなあ。俺は豆腐切って入れてるだけなんだけど」
「でもうまいよ」
「じゃあ、企業努力だ」
感謝感謝とあしらって皿によそった麻婆豆腐を調理台に置くと、「真剣に言ってるんだけど」と理玖は頬を膨らませた。
「なに、おだてて料理担当にさせようって魂胆じゃないの?」
「酷くね? ばか真輝」
「あはは。ごめんって」
皿や箸をダイニングからいつものテーブルに運ぶ。コタツは今月初めにようやく片付けた。
五月も二週目を迎え、いよいよ本格的に暖かくなるかと思いきや、なんだかんだ薄ら寒い日が続いている。
「いただきます」
俺が席に着くのを見て、ひと足先に理玖が手を合わせた。むくれていた頬が、麻婆豆腐を口に含んだ途端に小さく緩む。
「ん、やっぱうまい。サンキュー真輝」
「はいはい」
「本気だって」
わかってるよと答えて頭を撫でると、理玖は照れくさそうに視線を逸らした。今さらすぎる初々しい態度に思わず笑いが溢れる。こいつの照れるポイントが、俺には時々よくわからない。
「笑うな」
「はいはい」
「『はい』は一回だぞ」
「はーい」
伸ばすな、とでも言いたげな瞳を横目に、手を合わせて自分の麻婆豆腐を口に含む。「な、うまいだろ?」と嬉しそうに、理玖が俺の顔を覗き込んだ。
「うまいね」
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