3月 料理

 最近、理玖が熱心に本を読んでいる。会社の人からすすめられてミステリー小説にはまったらしい。彼の手からのぞく表紙は有名な大衆向けミステリー作家の少しマイナーな作品で、なかなかに絶妙なチョイスである。



「理玖」



 どんな話だったっけ、と記憶を掘り起こしながら、俺は理玖に声をかけた。



「昼どうする?」

「んー? んー……」



 しばし答えを待ったが結局、返ってきたのは沈黙だった。「うらやましいよ、全く」と独り言を言いながら俺は冷蔵庫の扉を開けた。適当に野菜炒めでも作ればいいだろう。



 米は冷凍したものが二つある。取り出したキャベツを切っていると妙に心地よい気分になった。最近は料理をする時くらいしか気が落ち着かない。昔はそこそこ読んでいた本もめっきり手をつけなくなった――一冊読む間に一瞬で時間が過ぎていってしまうのが、無性にもったいなく感じられるせいだ。



 大人になって世界は急に忙しなくなった。自分はもう十分に幸福なはずなのに何をしていても焦りがにじむ。こうしている間にも手のひらからこぼれ落ちているかもしれない無数の可能性が脳裏をよぎり、それを自覚するたびに、自分も着々と歳をとっているのだなあとしみじみ実感するのだ。



「真輝、肉は?」



 はっと顔を上げると、理玖のきょとんとした瞳がこちらを見つめていた。幼子のような純粋なまなざしだ。彼のこういうところが、俺はたまらなく好きだ。



「入れる。豚バラ出しておいて」



 理玖はいそいそと身をかがめて冷凍庫を漁りだした。その音を背中で聞きながら今度はニンジンを切り、もやしを洗って、全てザルにまとめておく。使い終わったまな板と包丁を片付けると調理台の上はずいぶんとすっきりした。料理はいい。作業を順番にこなしていけば、確実に完成するのだから。



 とにかく、目の前のことを、一つひとつ。



 心の中でそう唱えながらフライパンを熱し、理玖が持ってきた冷凍の豚バラを一気に放り込む。ぱちぱちと目の覚めるような音が辺りに響き、しばらくすると、肉の焼けるいい匂いが鼻腔をついて食欲を誘った。

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