1月 月曜日
「だーからあ、仕事にー、行きたくないんだよう」
ジョッキをカウンターに勢いよく置いた理玖が、情けない声を出した。
「わかったから落ち着けって。まだ月曜だぞ」
「月曜って言うな」
つまみのポンきゅうりを忌々しげに睨みつける瞳が完全にキマっている。
正月休みで散々だらけた分、先週一週間の仕事がかなり精神に堪えたらしい。そのストレスが土日の二日間で癒えるわけもなく、そのまま月曜日に突入して新たな一週間が始まってしまったので、理玖は仕事から帰ってくるなり荒れに荒れていた。仕方がないので外に連れ出してやったが、このままでは明日の仕事に支障が出そうだ。
「はー。ベーシックインカム導入されてくれないかなあ。こんなに税金払ってるんだからさあ……あっ、おじちゃん生一つ」
「やめとけって。すいません、お会計で」
俺は理玖の手を無理やり引き、最後の一個だったポンきゅうりを口に詰め込んで、カウンター内にいる店主に声をかけた。会計を済ませて外に出ると、刺すような北風が吹き抜けて鼻の奥がツンとした。
「寒いよ」
肩をすくめて歩き始めると、理玖が耳元でささやいた。酒臭くて熱い吐息に耳朶をくすぐられ、たまらなくなって、俺は理玖のネクタイを引いた。勢いに任せて、唇に触れるだけのキスを一つ。
「なに、珍しい」
理玖の大きな手のひらが俺の輪郭を包み込む。そのまま引き寄せられて、俺の視界はあっという間に理玖でいっぱいになった。酒で潤んだまなじりは妙に嬉しそうな弧を描き、やがて差し込まれた柔らかな舌が優しく口内をまさぐる。
「ねえ、早く帰ろう」
「んー?」
「したいんだけど」
「今日は気分じゃないかな。月曜日だし」
「……真輝のそれ、本当にタチ悪い。先に誘ったのはそっちのくせに」
忌々しげにそっぽを向く理玖の赤い耳を眺めながら、お互い様だよ、と心の中でぼやく。
今までの経験上、酔った理玖は夜のことを全て忘れる。こんなに熱い身体をして、夢見るような瞳で俺を見つめ、むさぼるくせに、だ。
「お前にはさ、もう忘れてほしくないんだ」
大事なものに触れる手つきで柔らかく髪をかき混ぜてやると、理玖は俺の手に頬をすり寄せるようにして相好を崩した。あまりにも無防備な笑顔につられるようにして、俺の口元もため息混じりに緩む。俺もお前も、なんて単純な男なんだ。
「なあ、理玖。しっかり覚えておいてくれよ。俺の心も、身体も、声も、匂いも、言葉も。全部」
全部だぞ、と念を押すと、理玖は「もちろん」と機嫌よさそうにうなずいた。
絶対に嘘になるとわかっているのに、その言葉を聞くたびにひどく安心するのだから、俺はやっぱりタチの悪い人間なのだろう。
むーん、あなたは、
空に浮かぶ半月を眺めながら、理玖が懐かしい歌を口ずさんだ。子どもの頃、父の車でよく流れていた歌だ。酔っ払いの調子外れな旋律を聞きながら、初めて理玖と身体を重ねた日のことを思い出した。
まだ今の部屋に引っ越す前の狭苦しいアパートで、俺は初めてだったけれど、理玖は違うようだった。散々愛された後、火照りの冷めた身体で窓際に寄り、大きな月を眺めながら少し泣いた。
傍で寝息を立てていたこいつは、俺の涙なんて知らない。そもそも、人の初めてを奪っておいて、翌朝には酒のせいで綺麗さっぱり忘れたと言うこいつに、俺はよく愛想を尽かさないでいられたものだ。
「理玖」
「ん?」
「感謝しろよ」
なんの話? と理玖が首を傾げた。そのきょとんと見開かれた瞳を眺めながら、このやりとりもきっと、明日には忘れられているのだろうな、と思った。
「俺がお前を好きだって話」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます