習作
食虫生物
酔い夢
風呂に浸かった腕をゆっくり上げて、顔に乗ったタオルケットをどけた。息を大きく吸い、眠気とともに吐き出した。浴槽の外に出ていた足を再び中に入れ、僕は首まで湯船に浸かるよう身体を小さく丸め込んだ。ふやけた指で腕を掴み身体を持ち上げようとする浮力に抵抗する。風呂の温度は既に僕の体温より下がっていて、じっとしていると身体から温度が抜けていくようで気持ちがよかった。しばらくそうしていると脱衣所のドアが開く音がした。曇りガラスの向こうでは、キャビネットの前で慌ただしく動く人影があった。人影はキャビネットから物を取り出しては閉めてを繰り返しながら非常に慌ただしく朝の支度をしているようだった。僕はキャビネットが勢いよく閉められるたびにキャビネットについたミラーが割れやしないか心配だったが動くことはしなかった。そのままじっとしていると突然ドアが開き人影……アリスが長く黒い櫛を片手に飛び込んで来た。アリスは僕がいることに気づいていなかったようで、浴槽の中の僕を見つけると目を大きく開き、家中に響き渡る悲鳴をあげた。悲鳴は僕の頭を揺らし耳の奥で幾重にも反響していた。
「ちょっと、入っているなら教えてよ。またびっくりしたじゃない。だいたいお風呂に入る時は電気を付けてっていつも言ってるでしょ。これ以上私の心臓を悪くしないで。」アリスはまくし立てるようにそう言うと、ドア横にあるバスカウンターに並べられたボトルを2本取り、勢いよくドアを閉めた。アリスが来てからこの家のバスカウンターは彼女の美容品で占領されている。そのことに関して不満はないし、むしろ整然と並べられたそれらは僕にある種の満足感を与えてくれた。もっとも何か不満があったとして僕にはそれを訴える権利は無いないのだが。耳の奥からアリスの悲鳴が消えた頃、再びアリスがドアを開けた。今度は覗き見るようにドアを開け、どこか遠慮がちではあるが強気に眉を寄せながらこちらを睨んできた。
「ねぇ、まさか昨晩からずっと入ってるんじゃないでしょうね。おばさまは昨日のうちにお湯を抜いておくよう言ってたわ。それに朝起きてから今まで私、あなたと会ってないわよね。本当に一晩中お風呂に浸かってたの?」アリスは既に身支度を終えたようで大人びたメイクで飾り、頭にはお気に入りのキャスケットをかぶっていた。僕が答えるより早くアリスは口を開いた。「大丈夫?あなたが電気を消してるせいでよく見えないけれど……生きてるわよね?」
本気で心配している様だった。答えようと口を開くが喉に何かが引っかかっているようで、激しく咳き込んでしまった。するとアリスは一瞬、ギョッとした表情を浮かべたがまたすぐに強気な表情に戻った。「驚かせないでよ、お願いだから。とにかく早くお風呂から上がって朝ごはんを済ませちゃって。私、今から友達と遊びに行くから。夜までには帰るわ。」そう言い残し、アリスは一度引っ込んだが再びドアを開け顔を覗かせた。「本当に大丈夫?お風呂から出たら栓を抜いて洗っておいてね。いつまでも暗い所に居るから気が滅入るのよ。とにかく電気付けちゃうからね。」僕がさっきから話さないのは機嫌が悪いからだと思ったらしい。アリスはスイッチを押した。電球が小さく2回点滅し、白い光が目を刺した。途端に揺れる様な感覚が訪れ頭が鳴り始めた。鈍い痛みに思わず嗚咽を漏らすとアリスが深刻そうな声で話しかけてきた。
「ねぇ、あなた顔が真っ青よ。唇も酷い色してるわ。私もう出かけるから……あなたもいい加減上がってちょうだい。」そう言うとアリスはドアを閉めて脱衣所からも出て行った。僕もそろそろ上がらなければと思っていた。体を起こそうと風呂の縁をつかむが力が入らず腕が震えるだけだった。大きく息を吐くとしゃくりあげるように喉の奥で何度も引っかかった。再び腕に力を込めながらやっとのことで風呂から這い出ると、途端に目が回り、その場で座り込んでしまった。目の中で黒い星がぼやけたように点滅している。胸の奥から血管を流れて熱い血液がじんわりと体を満たすのを感じた。血液は身体を上るにつれてじわじわと温度を上げてゆき、やがて頭に到達すると激しく沸騰した。こめかみが脈打つたび鈍い痛みが波のように押し寄せる。僕は立ち上がることも出来なかった。視界が染みていくように暗くなる。それに合わせてバスタブに体重を預けた。痛みで余裕は無かったがどこか嫌に冷静だった気がする。意識が遠くなる感覚を味わうように僕はゆっくりとまぶたを閉じた。—————
習作 食虫生物 @shokuchuuseibutu
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