3.

 目覚めた私の隣で、彼は私を眺めていた。

 今は午前三時前だという。

 彼の顔を見ていたら、昨夜の彼を思い出して、恥ずかしくて目を伏せてしまった。


 今までにない激しさで私は何度も意識を失いそうになったが、彼の欲望は果てることを知らず、ただ一方的に、繋がり合った場所にある、彼しか知らない場所を執拗に責められて私は何度も果てた。

 だが今はその激しさはなく、穏やかな顔を見せている。そんな彼を愛しいと思ってしまい、私はそっと彼の頬に触れた。

 彼は私を抱き寄せるが、耳に流れ込んだのは、彼が恋に破れた話――私はいつの間にか心も引き寄せられていることに気づきながらも話に聞き入った。


 二十代の頃は仕事と勉強で時間が無く恋人はいなかったが、三十代になってからある女性を好きになり、ずっと想い続けたと。六年目に好意は伝えたが、答えをもらえないまま、八年に渡る恋はその女性の結婚で終わりを告げたという。それは一年と少し前のことだったと。


「俺だって、その女性を忘れられなかったよ」


 その言葉に私は、心臓がキュッとした。

 私で忘れようとしたのか。

 私は彼をそんなふうに思ったことはなかったのに。


 彼の腕に包まれながら、私はふと、ある言葉が頭に浮かんだ。


『中村さんの名前は、清隆きよたかさんですよ』


 加藤さんは、彼は群馬県警の中村なかむら清隆きよたか警部補だと、そう言っていた。だが手紙も名乗りも、藤川ふじかわみつるだった。

 彼女が言った『中村清隆』とは、誰なのか。彼のことなのはわかっているが、彼の名前ではない。

 いつか聞いてみようと思っていたが、言い出せないままだった。

 私は藤川充と名乗る彼を改めて見るが、やはり何も言い出せないまま彼の目をじっと見た。だが思わず言ってしまった。あなたは誰、と。


「加藤さんからは、あなたは中村清隆だと聞いてたけど……でも手紙は藤川充だった」

「あー……えっと、ね、それは……」


 彼は息を大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。そして私と目を合わせるように、私に顔を寄せた。


「俺は群馬県警の中村清隆じゃない。警視庁の藤川充」

「えっ?」

「加藤が入院していた頃は……まだ加藤には、事情があって俺の本当の名前は名乗れなかったんだ」


 私を見つめる彼の口調はいつもの声音だったが、鋭い目線で私を見ていた。私は怖くなって目を伏せてしまう。そして耳に流れ込んだ彼の言葉は、私に衝撃を与えた。


「美波が、俺を藤川充だと周知させるようなことをしないか、ずっと見てた」


 私は身元と素行調査をされていたという。

 最初から、彼は私が不倫していたことを知っていた。そして相手が警察官であることも、もちろん知っていた。


 私は何も言えずただ顔を伏せていたが、彼は私の顎に手を添えて力を込めた。見上げたその目は優しく穏やかで、優しい声音で、私に語りかける。


「美波の連絡先を聞いた後、身元と素行の調査をしていたから手紙の返事が遅くなったんだよ。でも美波はその間、俺の存在を誰かに言うこともしなかった。だから電話した」

「そうなんだ……」

「最初の手紙で、俺の字が読めないって言葉を選んで書いてあって、正直な女性ひとなんだなと思ったし、初めて会った日、美波は不倫していたことを正直に話したから、だから、美波を遊びで手を付けちゃいけないと思ったんだよ」


 私はそんな彼の想いにただ目を見開くことしかできなかった。ただ、気づいたことがある。それは初めて会った夜、私は酔っていたのもあって彼を誘おうとしたが、彼は手紙が嬉しいと言い、手紙に何を書いて欲しいかずっと私に伝えていた。それは私にその先の言葉を言わせないようにするためだったのか。


 初めて会ったのは八月末だった。

 十二月の私の誕生日に彼は私を口説いて、初めて体を重ねた。それは五回目のデートだった。彼は私を大切にしていたということだったのか。私はディナーとプレゼントの対価を求められたのだと思っていたのに。


 彼は優しい口調のまま続ける。


「美波の手紙は、俺を気遣う文章だけ筆圧が強いし、だんだん字が小さくなる。俺を想ってそうしてくれることが嬉しかった」


 彼の言葉は、私への愛が溢れていた。

 この一年と少し、メッセージアプリでのやり取りは会う日や待ち合わせに問題が生じた時だけで、月に一度会って、あとは手紙を送っていた。


「美波が、いつか、俺に気持ちを向けてくれたらなって、思ってた」


 彼の目は悲しげな目だったが、ふっと微笑した。その微笑みは何度も見た微笑みだった。だが、この一年と少しは、彼にとっては――。


「でもその女性のこと、忘れられないんでしょ?」


 重なる体から彼の鼓動を感じる。私より少し速い鼓動が答えなのだろうか。


「俺はさっき、忘れた」

「えっ?」

「プロポーズした瞬間に」


 彼の言う私を想う気持ちに嘘はないだろう。だが私は彼の言葉を聞いてもなお不安だった。彼はそんな私に違和感を覚えたのか、少し眉根を寄せて見つめ、続けて私の額にキスをして、なぜ私にプロポーズしたのかを続けた。


「看護師は人の命を預かってるって、わかってたはずなのに忘れてた。でも美波が漏らした言葉に、俺は美波を、人として惚れた。尊敬してる。ついていきたいって、美波と人生を共に歩みたいって、思ったんだよ」


 彼の言葉で、罪悪感や後悔で重かった私の心が軽くなった気がした。私は今、罪を償い終えたのだろう。不倫した事実は消えないが、罪を償った私を彼は愛してくれようとしている。


「なあ、美波」

「ん?」

「俺は美波を、どんな手を使っても手に入れる。美波を俺のものにする、から」


 いきなり乙女ゲーの俺様キャラみたいなこと言い出した彼に、私は噴き出した。今までの彼とは違い、俺様キャラで口説き出す彼は少し新鮮だった。


「なんだよ、なんで笑うんだよ」

「ふふふ……『キュンキュンしちゃう』とでも言えばいいの?」


 少しだけ鋭い目をした彼は、私の目の奥を探るような眼差しで見つめたが、すぐに頬を緩ませてこう言った。


「ああ、出来れば可愛く言ってくれると嬉しいよ」


 それくらいなら私はいくらでもしてあげる。

 私は彼を見つめて囁くと、彼は嬉しそうにしたから、その顔をちゃんと見たくて私は彼から離れようとした。だが彼は私を離さなかった。柔らかで潤いのある彼の声は、私を離さなかった。


「美波。好きだよ。結婚しよう。幸せにする」


 そして彼は私を強く抱きしめた。彼の腕の中は、こんなにも心地よくて温かいことを、私は初めて知った。


 きっと彼は私を大切にしてくれるだろう。お互いに愛を持ちながら私を慈しんでくれるはず。彼が私以外の女性を愛さないのなら、私だけを見てくれるなら、それだけでいい。


 彼と重ねた体から感じる鼓動はいつしか私の鼓動とひとつに重なっていた。彼の鼓動が私のものになっていくのを感じながら、彼を信じていいのだと、今の私は、そう確信していた。





 ― 完 ―





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 ブルースター

 初夏から秋まで咲く星の形をした青い花

 花言葉は『幸福な愛・信じ合う心・身を切る想い』

 和名は瑠璃唐綿(るりとうわた)

 瑠璃はラピスラズリのこと


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 藤川充と加藤奈緒、安原美波と加藤奈緒のエピソードはこちらです。


 ファーレンハイト・第二部

 幕間 恋する乙女の入院生活

 https://kakuyomu.jp/works/16817330656364568435/episodes/16817330666047494561




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ブルースター / Tweedia 風森愛 @12Kazamori-Ai

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