2.
店内の橙色をした白熱球の熱っぽい光は、氷の入った二つのグラスを虚ろな陽炎のように揺らし、彼のグラスの向こう側の世界は、どこか遠い星の夢のようにゆらゆらと揺らいでいた。
彼は自分のグラスの酒をひと口飲むと、物憂げに息を吐いた。そして、彼がふっと微笑し、私を見た。私は無表情のままじっと彼を見つめ返すと、彼はやっと口を開いた。
「なぜ、安原さんは、そんなことを私におっしゃるんですか?」
その問に私は心の中で呟いた。
罪を償ったから。不倫した事実は消えなくても、罪を償った私をあなたは愛してくれる人か、知りたかったから。
それを口にすれば良かったのかも知れないが、私は言えなかった。結局、口を吐いて出た言葉は心の片隅にある言葉だった。
「もう二度と会わないからです」
「えっ?」
「ふふっ、不倫するクズ女なんて、関わりたくないでしょ?」
私は冗談っぽく笑った。
彼もグラスの酒を飲み、彼のグラスも私のグラスも空になり、言葉を交わすこと無く二人は無言の空間に身を置いたが、少ししてから、彼はテーブルの上に置いた私の手を指先でそっと触れた。彼の顔を見ると、微笑んでいた。
「違う言葉を、言いたかったのではと思いますが……違いますか?」
そして彼が続けた言葉――それは、思いがけないものだった。
「安原さん。私は安原さんのことをもっと知りたいと思っています。今、安原さんがおっしゃった、ご自身の過去を曝け出した理由を含めて、です」
彼は真っすぐ私を見ていた。
少しタレ目の、笑いジワが刻まれた目尻を下げて。
◇◇◇
テレビを見たままで自分に見向きもせず、何も言わない私にしびれを切らしたのか、彼はソファに座り直した。
右腕で私の肩を抱いて左手を私の頬に添わせた彼は、そのまま手のひらに力を込めて私を引き寄せる。
されるがままに唇を重ねると、彼は私を強く抱きしめ、そして耳に流れ込んだ囁きに私はドキリとした。前の男が忘れられないんだろ――。
そのまま抱えられた私は、シーツに沈められるまで、ずっと彼の顔を見上げていた。眉根を寄せた鋭い目つき。歯を食いしばっているようにも見えた彼は、私の左側に横になり、私を眺めながらこう言った。
「ずっとわかってたよ。前の男を忘れられないって」
優しさの中に、少しトゲのある声音。
彼とお付き合いを始めて一年と少しが経ったが、デートらしいデートはしていない。十二月の私の誕生日には都内のレストランでディナーをご馳走になり、ラピスラズリのネックレスとピアスをプレゼントしてくれたが、彼の誕生日には会えなかった。
月に一度、彼が横浜に来て食事に行って、ホテルに行くか私の部屋に来て体を重ねるかの一年と少し。
そんな関係だから私は彼を恋人と思ってはいなかった。それに不倫の事実を伝えたのだから、そういう扱いで良いと思っていたから。
彼だってそう思っていたはず。だって会う約束は必ず手紙でだったから。私が連絡しなくなれば終わりを告げる関係なのだと思っていたから。
ただ、何度体を重ねても、彼は私に優しいことが不思議だった。
自分の欲望は後回しにして、私の体を慈しむように愛し、快楽の淵へと
「美波。俺じゃ、ダメか?」
「……ねえ、どうして、私が忘れられないってわかったの?」
私の言葉に
私が何かを言おうとして気づき
彼は初めて見る目をしている。私と目を合わせられず、不安そうに、泣きそうな目で、私を見ているようで見ていない。だが、続けた言葉は、声音が違っていた。
「俺じゃダメなら、そう言えよ」
彼の低い声は、地を這うように冷たかった。
私は目をギュッと瞑る。
怒鳴られるよりも恐怖を感じたから。涙が目尻に溜まっていくのがわかったが、我慢して拭うことはしなかった。
そんな私を彼は強く抱きしめるが、彼の体温を感じて胸の奥が少し波を打ったような気がした。
何か言わなきゃと思っていると、彼の手が私の頭を撫で始めたことに驚いて体がビクリと跳ねた。そんな私に気づいた彼のククッと笑った声が耳に流れ込んだ。
まるで子供をあやすかのようなその手つきに私は顔を上げ彼を見たが、私の知っているいつもの彼とは全く違う表情だった。
驚く間もなく、彼は私に頬を寄せてキスをした。
涙の跡を唇で拭うような優しいキスをしてくれたのだと思い、目を開けられないままでいた。だが唇に吐息を感じたその瞬間、彼の舌が唇を無理やりこじ開けた。慌てて目を開くと、熱い視線をこちらに向ける彼が一瞬見えたが、すぐに視界からの情報は遮断されてしまった。
彼の舌は激しく私の口内を、まるで私を溶かすように動かしている。時に舌を絡めたかと思うと、上顎をなぞるように舌を這わす。その度にゾクゾクとした快感が体の中を駆け巡り、彼の舌の感触に火が灯ったかのように体が熱くなった。
彼はゆっくりと体を起こして着ていたTシャツを脱ぎ捨てた。私は乱れた息を整えながら、彼の体を見ていることしか出来ず、彼はそんな私の衣服を乱暴に脱がせ、下着を剥ぎ取った。
何も纏わない私を見下ろす彼は睨めるように体を見てから私に覆い被さり、唇を食むようなキスをして、首筋へと下りていった。
彼の唇はどこまでも熱く、いつもと違う彼に瞠目した。私を貪るように激しく体中に唇を這わせる彼に、私の体をまるで自分のものだと証明するかのように印を落としていく彼に、これが彼なんだ、本当の彼なのだと思った。
今まで見せなかった激しい欲望が彼の中にあったのだと知った瞬間だった。鋭い目と強引さが彼の本性。心の底からゾクゾクする。
私のいつもと違う嬌声に、彼は満足そうに口元を緩ませていた。
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