ブルースター / Tweedia
風森愛
1.
テレビ画面に映るドラマを私は冷めた目で見ていた。
仕事のミスに声を荒げて激怒する上司と頭を下げて謝罪する部下。
女は涙を
その姿を私は
少し腹立たしかったのだろう、頭に浮かんだままの言葉が吐いて出た。
「いいよね、コイツら。仕事でミスしても謝るだけで済んでさ。人は死なないし」
隣に座る彼の喉が鳴る。
私がふと漏らした言葉を聞いたであろう彼は、私の肩を抱いていた腕を解き、ソファから降りて正座したようだった。
いったいこの人は何をしているのかと思いテレビ画面に顔を向けたまま横目で彼を見ると、床に手をついていたから私は彼の雰囲気にただならないものを感じ取り、彼が次に紡ぐ言葉を黙って待っていた。だが、耳に流れ込んだ言葉は、彼からは言われないだろうと思っていた言葉だった。
「一生ついていきます。結婚して下さい」
女なら嬉しいその言葉は、私の心に少しも響かなかった。それが可笑しくて、口元が緩む。
私は彼を見ることなくテレビの画面を見続けた。
場面転換したシーンは、上司から叱責されていた女が、お洒落なカフェで同僚のイケメン彼氏から頭をポンポンされている。また私は鼻で笑う。
私の名を呼ぶ正座したままの彼は、私の返事を待っているようだ。ならばと、私はまた頭に浮かんだままを言葉にした。
「私が養うの?」
彼の素っ頓狂な声に私は思わず顔を見た。想定外の返答だったから驚いたのか。だが彼は気を取り直してこう言った。ただ、まだ動揺していたのかしどろもどろで。
「仕事辞めない。警察辞めない。だから結婚して。お願い。
彼の言葉に、ふと思い出した。警察官にプロポーズされるのは二回目だなと。ただ、一回目の男はもうひとつ言葉を続けた。必ず離婚するから、と。
十一年前に出会ったその男は、夫婦関係が上手くいっていないと、離婚に向けた話し合いをしていると言って、私に甘い言葉を囁き、私の心を奪った。
当時二十五歳だった私には、彼の言葉を疑うだけの知識も経験も無かった。ただ、ひたすら彼を信じていた。
関係が終わった今でもまだ私の心にはその男がいる。似た男を見て心が騒ぐと、私の恋は終わっていないのだといつも思い知らされる。
「不倫してたクズ女なんてやめときなよ。もっとまともな女がいるよ」
彼のためを思いやって言った言葉は私に突き刺さる。だが、それでもいいと彼は言っていた。だから今でも私の隣にいるのに、私は彼を信用していない。だって月に一度、体を重ねるだけの関係だから。
私の言葉に悲しげな目をした彼だったが、ふっと微笑した。その微笑みは一年と少し前に見せた微笑みと同じだった。
◇◇◇
彼とは私の勤務する外科病棟で出会った。
初めて彼を見た時、イケメンだなと思った。長身で筋肉質な体つき、日に焼けた肌、後ろで束ねた艷やかな黒髪、歯並びの良い白い歯、濃い眉毛で二重まぶたの綺麗な瞳、少しタレ目で、笑いジワが刻まれた目尻が強く、記憶に残った。
入院患者に警視庁の女性警察官がいて、その彼女の見舞いに同僚の男性警察官数人が毎日入れ代わり立ち代わり来ていたが、中でも長身でイケメンの警察官二人は同僚たちの間で噂になっていた。
だが皆が警視庁の警察官だと思い込んでいた同僚たちは、イケメンの一人である彼が群馬県警の警察官だと知って一気に冷めていたが、私は群馬出身で何とも思わなかった。
実家は太田市にあって彼の自宅がある高崎はそんなに遠くないから、私は頭に浮かんだままの言葉を彼女に伝えた。すると、数日後に彼女からフルネームと連絡先を訊ねられた。
『群馬県警の中村さんが、看護師さんの連絡先を聞きたいそうでして……もしよろしければ教えて頂けたらなと思いまして。もちろん、差し支えなければ、です。私どもの立場上、ご無理にとは、申し上げられませんので……』
彼女は、私が彼の自宅がある高崎まで『横浜から湘南新宿ライン一本で行けますね』と言ったから、彼は喜んだと言っていた。
チャンスはどこに転がっているかわからないものだなと、胸が高鳴る感覚に心躍らせ、私は彼女に連絡先を託した。
電話番号と、フルネーム。
彼女は手帳に私の電話番号と名を書き記していた。
私の名――
数日後、病院の階段で彼女の見舞いに訪れた彼と鉢合わせした。お互いに驚いたが、私は会釈をして通り過ぎようとして、呼び止められた。安原さん、と。
そして間を置かずに、柔らかで潤いのある彼の声が私の耳に流れ込んだ。
『今、加藤に、安原さんに宛てた手紙を渡しました。お返事を頂けたら嬉しいです』
そう言って彼は微笑み、階段を降りていった。
だが、加藤さんに託された彼の直筆の手紙を見た時、私は少し後悔した。
筆で書かれた手紙は美しい文字で、達筆で、私は読めなかったのだ。なんとなくで読み進めていたが、おそらく『手紙のやり取りで交流を深めましょう』という意味合いの言葉が書いてあったのだと思った。
私は返事をすぐに書いた。正直に『読めません』と。
字はお世辞にも綺麗とは言えない上に読めませんと書かれた手紙を読んだ彼は、私を頭の悪い女だと思うだろうな、せめてペンで書いてくれればよかったのにと、イケメンの彼を思い浮かべながら私は返事を書いた。ひとつの疑問は伏せて。
それから一ヶ月経っても返事は来ず、入院していた加藤さんはすでに退院していたこともあって忘れかけていた頃、彼から連絡が来た。
電話口の向こうの彼は穏やかな声だった。
『
矢継ぎ早に話を進める彼についていけず、電話口で咄嗟に彼のペースを止めた。私は一方的に話され困惑したと同時に興味を持った。いったい彼は誰なのだろう、と。
その電話の翌週、私たちは食事に行くことになった。待ち合わせ場所にいた彼は長髪から短髪になっていて、男前の顔をさらに二割増しの魅力を加算しているように思えた。
レストランバーでは、彼は料理を私に取り分けながらよく話していた。自分のことではなく私から言葉を引き出すような話術で、懐かしいなと、頬が緩んだ。
警察官って、みんなこうなのかな。そう思わせるくらい、あの人と同じだったから。
そうして杯を重ねる中、彼は私に何を求めているのか疑問が湧いた。交際をしたいのか、ただの遊びなのか。彼は文通を続けたいと言っていたから、友人としてなのかも知れなかったが、どちらにしても私は伝えなくてはならないと思った。私はあなたにふさわしくないですよ、と。
四十一歳の彼の時間を無駄にしてはならないと、酔いの回っていた私は、自嘲気味に薄く笑いながら彼に伝えた。
「私ね、五年不倫して、奥さんにバレて慰謝料払って、この前、払い終わったんですよ」
私がそう言うと、シーザーサラダを取り分けていた彼の手が止まった。微かに下がる口角に力を込め、顔を上げぬまま目線を寄越した彼は、目を伏せて私のグラスを見て、また私を見た。そして何かを言おうとして口を開いたが、言葉が発せられることはなかった。
私はその姿が可笑しくて、重ねて言った。最低な女でしょ――。
グラスを手にした私は、彼のグラスに自分のグラスを軽く当て、一気に飲み干した。
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