第7話 代償

 景色が元の地下室に戻る。

 煌びやかな装飾も玉座も消え、地面にはモルスが仰向けで倒れていた。

 ギールは気絶したモルスを縛り上げ、その懐を探る。

 予想通り、禁書が忍ばせてあった。


 床にも少女の血が広がっている。

 ギールは禁書をモルスの上に置いて目次を開き、「天使の修復」という文言を探した。


 ——『天使の傀儡化かいらいか』『天使の血液による魔法の強化』『天使と天脈の接続と遮断』『天使の修復と破壊』——。


「天使の修復と、破壊……?」


 目的の魔法を見つけた。

 だが、同時に記されている「破壊」の文字が、やけにギールの胸をざわつかせた。

 パラパラと本をめくり、ギールは目当てのページを開いた。素早く目を通して、


「っ……! これは……」


 書かれていた内容に息が詰まった。


「天使の修復魔法を発動した者は、約十四日後に死亡する……」


 脳が理解を拒否する。

 ギールは声に出す事で、無理やり頭に情報を叩き込んだ。


「……死ぬまでに対象の天使が破壊された場合は、死を免れる」


 修復魔法の発動自体は、見たところ難解ではない。

 しかし、その代償があまりにも重い。


(俺はまだ死ねない。仇を討つと、誓ったんだ……)


 奥歯を噛み締め、ギールは天使の破壊魔法の記述に目を向けた。

 破壊魔法の発動も、決して難しいものではなかった。


 ギールは立ち上がり、少女の顔を見つめた。

 天使という特異な存在。

 きっと生き延びたところで、今後も様々な苦難がこの子には待ち受けているのだろう。

 いっその事、ここで終わった方が楽なほどに。


(……だけど)


 苦しげな泣き声が彼女の口から漏れる。

 泣いているのは、救いを求めているからだ。

 締め付けられるような痛みを胸に覚えながら、ギールは右手の指で彼女の涙を拭った。

 その涙の熱は、人間と何も変わらなかった。

 感情が——心が、あるのだ。

 そんな少女が、ただの道具として使い捨てられて良いはずがない。


「……今、助けるからね」


 ギールは右親指の皮膚を噛み切り、流れ出た血液で彼女の額に十字の模様を記した。

 そして彼女の右頬に左手を当て、唱える。


「——救いは十字架より生まれたりCreta cruce salus.


 瞬間、純白の光が少女の身体を包み込んだ。

 同時にギールは、自分の中に自分ではない「何か」が混ざり込んできたような奇妙な感覚に襲われた。


(……きっとこの「何か」が関係して、この子か俺のどちらかが死ぬのだろう)


 白光と違和感はすぐに収まり、続いて少女の周りで金色の光の粒が舞い上がる。

 時間にして数秒の煌めき。少女の身体の修復は高速で完了した。

 流れ出た血液はどうしようもなく、彼女は相変わらず血の海に沈んでいる。

 しかし瞳の色は真っ白になり、欠損していた手足も元に戻っていた。


 命の危機は過ぎ去ったはずだ。なのに——。


「どうして、起き上がらないんだ……?」


 少女は力なく天井を見つめたまま、ただ涙を垂れ流しているだけだった。

 瞬き一つしないで横たわっているその姿は、まるで糸の切れた操り人形のようで。


「っ……そうか、『天使の傀儡化』の魔法っ……!」


 ギールは急いで禁書を拾い上げると、該当するページを開いた。

 記されてあるのは、天使を操る各種詠唱や命令の効果範囲などの詳細情報。

 だが、その解除方法についての記載はなかった。


(……当然か。天使は基本的に人間と敵対する存在だ。捕獲したならば、解放する理由がない)


 だとしたら、せめて彼女に対する命令権は自分が握っておくべきである。

 ギールは禁書の記述に従って、傀儡化魔法の上書きを行った。

 だが、命令でこの子を無理やり動かすような真似はしない。

 そんな道具のような扱いなど、絶対に許せなかった。


 ギールは禁書をモルスの上に戻すと、コートを脱いで少女の身体の上に被せた。

 それからスマホを取り出して、フラッドに向けて電話をかける。

 ワンコールで繋がった。


『どうした、ギール?』

「『救世教会』の殲滅をお願いします。モルスは既に無力化しました」

『やはりそうなったか……分かった。終わったらまた連絡する』


 フラッドもこの展開は予想していたようだ。特に何も聞かれずに電話は切れた。

 ギールはスマホを左手に持ったまま、ハンカチを取り出して少女の顔に触れさせた。

 肌を傷つけないように慎重に血を拭っていると、スマホの着信音が響いた。

 フラッドからの着信。ギールは電話に出る。


『ギール、こちらは片付いたぞ』


 フラッドの落ち着いた声が鼓膜を揺らす。


「ありがとうございます。俺も状況を報告して良いですか?」

『ああ。一体何があった?』

「天使を保護しました。間違いなく、古代文明時代の天使です」


 一瞬、電話の向こうでフラッドが息を呑む気配がした。


『天使……天使ときたか……』

「はい。信じ難いとは思いますが」

『いや、お前が嘘をつくとは思っていない。しかし、天使か……』


 未知の存在を前に、フラッドは悩みを滲ませた声で言う。


「ええ。ですが、魔法で自発的な行動の一切を封じられていますので、危険はないと考えて大丈夫です」


 ギールは先回りして、フラッドの懸念を潰した。


『そうか……まあ、いずれにせよ放置するわけにもいかないだろう。ギール、その少女を連れてきてくれ』

「了解です。地下最奥にモルスと禁書が転がっているので、回収をお願いします」


 ギールは電話を切って、少女とベッドの隙間に両腕を滑り込ませる。


「少し揺れるよ。ごめんね」


 聞こえていないと分かっていたが、ギールは断りを入れる。

 それから、少女を横抱きに抱え上げた。

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