第6話 冷気

 言われた言葉を呑み込むまでに、ギールは数秒の時間を要した。


「天使とは……聖書や伝承に出てくる、あの天使ですか?」

「そう、その天使だよ」


 モルスが首肯する。嘘をついている様子はない。


「この少女は古代文明時代の遺産なのだよ。とはいえ、頭上の輪や背中の翼は剥奪されているのだが……それがないと、やはり信じられないかな」

「いえ……この子くらいの人間だと、血液量は大体三、四リットルのはずです。なのに、この子の出血量は明らかにそれを超えている……」


 こうして話している今も、血の海は広がり続けている。

 それなのに、少女の呼吸は止まらない。


「この子は人間ではない。人間と同じ見た目で人間でない存在は、俺の知る限り天使しかいません……」


 恐れにも似た感情を覚えつつ、ギールは少女を見つめる。


「天使の輪と翼はね、天脈に接続しているしるしなんだよ」


 モルスの声が聞こえ、ギールは顔を上げた。


「天脈……ですか?」

「人間は心臓で魔力を作り出すだろう? だが、天使は自分では魔力を生み出せないんだ。その代わり、天脈と呼ばれる魔力の溜まり場と心臓を繋いで、無尽蔵に魔力の供給を受けているのだよ」


 言わば天使の証だね、とモルスは語った。


「……それでは何故、この子は天脈と繋がっていないのですか?」

「『罪人つみびと』だからだよ」


 ギールは思わず眉をひそめた。


「罪人……?」

「そう。何らかの罪を犯し、神の怒りに触れ、天使としての尊厳と魔力を剥奪されたのだよ」


 ギールは少女の泣き顔に目を戻した。

 幼さを残したその顔立ちからは、とても想像がつかない話だった。


「この子は古代文明時代末期、神と人間が敵対していたときの天使なんだ。この子は戦闘兵器として生み出され、罪を犯し、そして遺棄されたと考えられる」


 戦闘兵器——その言葉にギールは胸が締め付けられた。


「天使は基本的に不死身だ。だからこそ、この子は死ぬ事もできずに苦しみ続けていた」


 モルスは深い悲しみを滲ませた表情で、呟くように言う。


「だがね、この子の目を見てくれ」


 ギールは言われた通り、開いたままの少女の瞳に目を向けた。

 淀んだ夜のような、黒に近い灰色の瞳。


「天使の瞳はね、本来は白いのだよ。この子の瞳も、最初はもっと白かったんだ」

「少しずつ黒に近づいているのですか?」

「その通り。そして黒に染まりきったとき、この子は死ぬ」


 心臓を鷲掴みにされたような衝撃に襲われて、ギールはモルスを見た。

 モルスは、静かに頷いた。


「天使の不死性もね、永遠のものではないんだ。正確には分からないが、この子の残り時間が長くない事は確かだよ」

「そんな……」


 ギールは傷だらけの少女に視線を落とした。


「……だから、あなたたちは禁書第四〇号を盗み出したのですか? そこに、この子を救える魔法が載っているかも知れないから」

「重い罪だとは分かっていたのだがね。しかし、公にすればこの子は実験体になるか、危険だからと処分されていた可能性が高い。この子を救うには、我々だけでどうにかする他なかったんだ」


 モルスは縋るように、ギールに訴えかける。


「お願いだ。罰は必ず受ける。だからどうか、『天使の修復魔法』の発動に協力してもらえないだろうか」


 それが、一連の事件を起こした『救世教会』の目的。

 ギールは少女の頬に、そっと右手を触れさせた。

 冷気でかじかんだ指先に、彼女の体温と肌の柔らかさが伝わる。


「……俺は天使について、そこまで詳しいわけではありません。ですが、今この子は苦しんでいる。肉体がある以上、きっと感覚は俺たちとそう変わらないのでしょうね」

「ああ……痛みも苦しみも、私たちと同じように感じているはずだよ」


 モルスが目を伏せて答えた。ギールは頷き、少女から手を離す。


「モルスさん、あなたはこの子を救いたいと仰っていましたね。だとしたら」


 ギールは、モルスを真っ直ぐに見据えた。




「——どうして、暖房をつけてあげないのですか?」




「…………は?」


 モルスの目が見開かれた。予想外の問いかけに、思考が追いついていない様子だった。


「分かりませんか? だとすれば、それこそが答えです」


 ギールは静かな声で告げる。


「もし本当にこの子を救いたいと思っていたならば、こんな寒い中に放置するなんて絶対にできなかったはずです」


 少女は身体を震わせている。痛みだけではない。

 人間と感覚が同じならば、この身を切るような寒さにも襲われているはずだ。


「なのに、あなたには暖房をつけるという発想すらなかった。それはあなたが、この子を戦闘兵器としてしか見ていなかったからでしょう?」


 モルスは目を閉じて十秒ほど黙っていたが、やがて小さな笑い声を零した。


「やれやれ、私も詰めが甘かったか……」


 そして彼は、笑ったままギールに向き直った。


「だが、君も詰めが甘い」


 ——次の瞬間、ギールの身体に鎖が巻き付いた。


「……ッ!?」


 直後、景色が一転した。言うなれば、それは王の御前。

 地下室は宮殿の玉座の間に変貌していた。

 全体に施された黄金の装飾。煌びやかな光が反射して、痛いほど目に突き刺さる。


「領域魔法……?」

「その通り。油断したね、ギール君。私の嘘を見破って良い気になってしまったのかな?」


 嘲るような口調で笑いながら、モルスはゆったりと玉座に腰かけた。


「これが私の固有魔法だよ。この領域内では私以外の全てが弱体化する」


 モルスが右手を掲げ、振り下ろす。

 瞬間、ギールは地面に叩きつけられた。肺から空気が押し出され、痛みに顔が歪む。


「ぐっ……」

「君がどれほど強力な魔力を秘めていようとも、もはや意味はない。この世界では私が王だ。私の力が何よりも優先される」


 勝利を確信した表情で、モルスが語る。


「君もあの天使と同様、私の操り人形にしてあげよう」

「……それであなたは、何をするつもりですか……?」


 ギールは地に縛られた状態で目を細める。

 モルスの笑みが深くなった。


「私を追放した魔法学会に、私の正しさを知らしめてやるのだよ」

「追放した……?」

「現代では、多くの人々が悩みを抱えているだろう? それは何故だと思う?」


 モルスは逆に問いかけてきた。

 ギールは首を横に振り、続きを促す。


「答えはね、人間が増え過ぎたからだよ。だからこそ貧富や技術、能力の差が浮き彫りになり、世界は悩みを持つ人間で溢れ返った」


 モルスは悠然と語る。


「だからね、かつて私は『人間を間引く』事を提唱した。古代魔法を使えば、苦しみもないまま大勢の人間を消し去る事ができる。悩める人々の苦しみは終わり、選ばれた少数の人間は平和に生きられる。だと言うのに」


 モルスの笑みに、怒りか憎しみのような色が混ざった。


「学会の奴らは私を危険思想の持ち主だと決め付け、追放したのだ。だから私は、天使の力を使って奴らに知らしめなければならないのだよ」

「……それが、あなたの本当の目的ですか」

「君はどう考える?」


 自分の勝手な思想を押し通すためだけに、他の人々を殺戮する。

 そんな暴挙が許されて良いはずがない。

 鎖に縛られた身体が熱を帯びる。

 ギールは沸々と湧き上がる怒りに、モルスを睨みつけた。


「絶対に、受け入れられません」

「……そうか、君も愚かな人間だったようだな。だが、その魔力は有用だ。私が存分に使ってあげよう」


 モルスが嗤いながら右手をこちらに向ける。


「——王の命令:愚か者よ、私に服従せよ」


 その手の先に真っ赤な魔法陣が浮かび上がり、ギールの目に鮮やかに映った。

 やがて光は収まり、静寂の中にモルスの含み笑いが響く。


「ふふふ。これで私の勝ち……」




「——眼の警告:動くな。見られている」




 言葉を遮った詠唱に、モルスの笑顔が凍りついた。


 ギールは魔力を身体に巡らせて力を込める。

 ガチャンッ! と鈍い音を立てて鎖が砕け散った。

 身体が軽くなる。ギールは両手を地面について起き上がった。

 モルスに視線を戻す。彼は玉座の上で固まったまま、驚愕の表情を浮かべていた。


「ば、馬鹿な……何故私が動けないっ!?」

「『動くな』と命じましたから」

「あり得ない……この領域では私が王のはずだっ!」

「簡単な話ですよ。弱体化してもなお、俺の方が魔力が強かったからです」


 ギールはモルスの頭上を指差した。モルスが目線を上に向ける。

 そして彼は、さらなる畏怖に襲われたように目を見開いた。


「な、何だ……これはっ!?」

「俺の固有魔法『魔眼球』です」


 巨大な眼球が一つ、宙に浮かんでいた。

 その眼球はじっと、モルスを監視するように見つめていた。


「——眼の宣戦:太陽は肉体を焼却し、月は精神を破壊する」


 ギールは詠唱する。淡々と、モルスを見据えて。


「——左眼は月である」


 頭上の眼球が青白い光を帯びた。


「あなたには聞きたい事が色々ありますが、それはまた後日。牢獄の中で聞かせていただきましょう」


 眼球から照射された光線が、モルスを呑み込んだ。

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