第5話 血まみれの少女

 モルスに従って建物内部に入り、階段を下って地下に辿り着いた。

 蛍光灯の頼りない光にぼんやりと照らされている空間。無機質な白い壁と床。そして整列した扉と部屋番号を示すプレート。


 肌を刺すような冷気の中、モルスは靴音を響かせながら奥に進む。ギールも後に続いた。


「残してきた仲間が心配かい?」


 モルスが前を向いたまま、柔らかな声で話しかけてきた。


「いえ。戦いになればこちらが勝つので、特には」


 ギールは平坦に答えた。モルスは肩を揺らして笑う。


「ふふ。それじゃあ、どうして君は素直に私の要望に応じたのかな? そのまま私たちを潰した方が簡単だったろうに」

「単純に、あなた方の目的を先に知りたいと思ったからですよ」


 わざわざ回りくどい真似をしてまで、自分を呼び寄せた目的を。

 その詳細次第で、自分も武力を行使するべきか対応を決めようと考えている。


「最初から、俺一人が狙いだったのですか?」

「正確にはね、並外れた魔力を持った人材を探していたのだよ」


 こちらをチラリと見てモルスが言う。

 それによって、今までの情報がギールの頭の中で一本の線のように繋がった。


「なるほど、あの夢の薬の事件は巧妙でしたね。解決できるほどの魔力を持った者を炙り出せる上、被害者も誰一人死んでいないからこそ、こうして対話の機会も設けられた」


 もし夢死薬の被害者が一人でも死亡していたら、自分は問答無用で『救世教会』を壊滅させていた事だろう。


「その通りだよ。君は頭の回転が速いね」


 モルスが感心したように言うが、だからこそギールは警戒心を強めた。


(……ここまで、この人の思惑通りに事が運んでいる)


 今の褒め言葉は、自分にそこで思考を止めさせるための甘言のように感じられた。

 まだ、何か裏がある気がしてならない。


「君を呼んだ理由はね、とある古代魔法の発動に協力して欲しかったからだよ」

「協力ですか?」

「そう、非常に強力な古代魔法だよ。だからこそ私たちでは魔力が足りず、効果を十分に引き出せなかったのだよ」


 悔しげな様子が、モルスの声音から窺えた。


「それは、禁書第四〇号に記されている魔法ですか?」

「その通り。大体どんな魔法か想像がつくかい?」


 モルスに問い返され、ギールは首を横に振った。


「いえ。俺たちは強力な魔力を持つからこそ、禁書に関する情報との接触を禁止されているんです。なので何も分かりません」

「なるほど、そうなんだね。それじゃあ実際に見てもらった方が説明しやすいかな」


 突き当たりの扉の前でモルスが立ち止まる。彼が横の壁に設置された端末に四桁の数字を入力すると、扉がスッと左右に開き、




 ——ふわりと、冷気の中に鉄錆の匂いが混じった。




 透明な空気が赤色に汚れていくような錯覚に、ギールは瞬時に警戒を最大まで引き上げた。

 それは、紛れもなく血の匂いだった。


 自分とモルスの息遣いに紛れて、微かな喘ぎ声が聞こえた。

 か細い、少女の声だった。


 ギールはモルスの横に立って室内を注視する。廊下と同じ白い壁で囲まれた部屋は、一般的な教室程度の広さだった。

 ただし机や椅子の類は見当たらず、中央に小さなベッドが一つだけ置かれていて。


 そして——血まみれの少女が、その上に仰向けで倒れていた。


「あの子は……!?」


 少女の元に駆け寄る。血の匂いが一層強くなる。

 だがそれ以上に、彼女の惨状にギールはグッと息を呑んだ。

 その右腕は肘から先が、左腕は手首から先が、両脚は膝から下が失われ、鮮血が流れ出ていた。


 苦しげな呼吸音が聞こえる。

 顔も血まみれで、涙に濡れた虚な瞳が微かに揺れていた。

 元は純白だったのであろう長い髪もワンピースも、真っ赤に染まっている。

 洋服に包まれているその身体も、きっと酷い損傷を負っているのだろう。

 ベッドの上は血の海と化していて、端から血液が地面にボトボトと流れ落ちていた。


 明らかに致命的な出血量。凄惨な光景に、ギールは口の中が渇いていくのを感じた。


「は、早く止血を……」

「できないよ」


 聞こえてきた声に、ギールはハッと顔を上げる。モルスがいつの間にか隣に立っていた。


「できない……?」

「何をしても血は止まらないのだよ。見てみるかい?」


 モルスの右手にはナイフが握られていた。そのまま彼は、自分の左手を切り落とした。

 断面から血が溢れ出す。

 モルスの突然の奇行に、ギールは戦慄に襲われた。


「!? 何をっ……」

「大丈夫だよ。私は痛みを感じない体質でね」


 モルスは微笑みすら浮かべて、ナイフを捨てると懐から小瓶を取り出した。

 中には、緑色の液体が入っていた。


「禁書の記述により生み出した回復魔法薬だよ」


 モルスはその薬液を左腕の切断面にかけた。傷口が緑色の光に包まれて、


「ほら元通り。すごい効果だろう?」


 ギールは言葉を失っていた。

 モルスは愉快げに、ギールの眼前で左手を振る。

 しかしすぐに、ふと表情を翳らせた。


「……だけどね、この子には効かないのだよ」


 言いながら、モルスは残った薬液を少女の右腕に注いだ。

 しかし薬液は反応せず、少女の右腕も元に戻らなかった。

 血は、変わらず流れ出ている。

 ギールはただ、少女を見つめる事しかできなかった。


「この子を保護してから二ヶ月、我々はこの子を助ける術を探し続けていたのだよ」

「二ヶ月……? ですが、人間がこんな状態で生きていられるはずは……」

「そうとも、この子は人間ではない」


 モルスは痛ましげな表情で少女を見つめたまま、告げる。




「——この子はね、天使なのだよ」

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