愛してる





 ここはとあるセミナー。立ち上がった受講者の一人が言った。

「愛してる、の意味を知りたいのです」

「俺も愛してるの意味を知りたいのです!」

 すると、別の男が挙手しながら立ち上がり、最初の女性の声を掻き消すような大声で言い、また別の男子が立ち上がった。

「いや、待ってくれ。それについては俺の方が知りたい。なにせ俺は生まれてこの方、愛してるなど理解するような経験がないのだから」

「それはどうかしら」

 別の女性がこそっと言って、注目を集める。男子が食ってかかる。

「な、なにを……ど、どういうことだ」

「あなたは男でしょう? 昔から男の子というのは後継としての役割があるために、有り難がられたものだわ。それに、見たところ綺麗な服もきている。痩せっぽっちでもないわね。あなたは愛されていないなどと言いながら、それだけのものを確かに頂いているわ」

「た、確かにそうかもしれないが、それは君だって同じではないかな」

「それは違う。私は代わりにこの心を痛め続けてきた。私の服も体格も、その痛めた心や身体を代償として得られたもの。真に愛を知りたいのは、この私よ!」

「まぁまぁ言い合っていても仕方がない。一度、全員の意思を確認してみよう」

 教壇に立った男がそれでまとめると、教室は静かになった。

「愛を知りたいと思うものは全員、挙手」

 言われるがままに生徒たちは皆、まっすぐに手を伸ばしたり、おずおずと恥ずかしがりながら挙げたりしたものだ。しかし、その中で手を挙げずに顔を背ける者がいたので、教壇の男は指名した。

「なぜ君は挙手しないのだ? 愛を知らなくてもいいというのかね?」

「そうだ。そんなものが今まで役に立った試しがないからな。俺は俺一人で生きてきたのだ」

「寂しいことを言うでないよ」

「事実だ。そっちの女の言うように、確かに男として生まれて一家の稼ぎ手としての扱いは受けてきたかもしれない。しかし、それは結局、親や妻が自分たちが楽をしたいための方便だったのだ。例え物や金を与えられたといって安易に愛とは言えない」

「なるほど。しかし、妙なことだ。実のところ今の話を聞くと、私は君が一番、愛を知りたがっているように見える」

「待ってください、教官。それはプラフです。騙されてはなりません」

 寂しい男の反対の席から、威勢のいい女が立ち上がった。

「その男はそうやって巧みに周囲の人間を騙くらかし、甘い汁を啜ってきたのです。現に物や金が与えられているだけ、愛に満ちているではないですか。愛は、そんなものさえ満足に手に入れられない人たちこそ知るべきものでしょう」

「そういう君は、確かに、ずいぶんと貧しそうだな。痩せていて、小さく、服も汚いね」

「そうなのです。今は女だって働き手として重用される世の中です。男女の違いもなく、私は子どもの頃から酷い扱いを受けて、その代わりとなるような出会いも経験にも恵まれず、今まで慎ましやかに暮らしてまいりました。私こそ、愛を知りたいのです」

「知ったら、君は、その愛をどうするつもりかね」

「もちろん。愛を知らない人たちの元に献身的に駆けつけて、愛を届けてまいります」

「なるほどなるほど。では、少なくとも君は、君自身には愛されているというわけだね。本当に愛を知らぬものならば、自分にそんな期待すら抱くまい」

 そのとき教室の端で、椅子から倒れた生徒がいた。既に虫の息で、息も絶え絶えに言う。

「愛などいらぬ。いらぬから、その代わりに水と食料をください」

「すぐに手配しよう」

 教壇に立った男が言って、間もなく係の人が教室を出て行き、しばらくすると、その者に食べ物と清涼水が届けられた。

「ありがとうありがとう。実は会社をクビになって、再就職もできず、家を追い出されたというもの、もう何日も何も食べていなかったのだ。ついでにどうだろう。私をこの教室の係として雇ってもらえるとなお助かるのだが」

「それはできない。申し訳ないが、手は足りているんだ」

「なんという。それでは俺は結局、またひもじい思いをするまでの時間稼ぎをしただけではないか。教官、あなたに愛はないね」

「そうだろうね。だって、私も愛を知らない」

 教壇の男は言った。

「これを見たまえ。君たちを教えるための我々の教科書だ。こんなものが随所に配られて、私たちとて、それを元に君たちに愛を説いているにすぎないんだよ。もうこの世界の誰も、愛を知らないのだ」

 愛が文献の上でしか存在しなくなって既に数百年。そこは未来の愛を求めるものたちのセミナーだった。

「だから、この中に愛を知っているものがいるならば、ぜひご教授願いたいと思って、これも始めたことだ」

「成果は得られたのでしょうか?」

「分かったことがある。それは皆、愛のことは知らずとも、自分のことは愛しているということだ。我々人間が失ったものは、それを他の誰かに分け与えようという気持ちだったのだ」






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