死相
死相ってのがある。死相。
いわゆるデスマスク。
死ぬ時の顔なのか、死んでからお棺に入れられてる時の顔のことまでを言うのか。
そんな細かいことはさておき、でも僕の死相はきっとこの上もなく穏やかなものになるだろうなと思って、そう思ったときに違和感に気づいた。
違和感だ。
例えば葬式なんかに参加したことのある人なら一度は聞いたことがあるだろうね。
「見て。やすらかな寝顔」
このセリフ。
おかしくないだろうか。
日本でも著名なパンに由来するあのヒーローの作者の死への面持ちはだいぶ違ったそうだ。
ニュースにもなっていたから知ってる人も多いんじゃないだろうか、この話。
こんな面白いことがたくさんあるのに、なんで俺は(歳で)死ななきゃならないんだよ。
死にたくねぇよ。
苦しげに、そう語っているのを見たことがある。
僕は、穏やかに眠れると思う。
なぜって?
生きるのが嫌なときもあるからね。
きっと死ぬときにはホッとするんじゃないかな。
でも、それなら、死相が穏やかなのは、つまり。
◇
「やすらかな寝顔」
「すごい綺麗だね……」
「ゆっこが化粧したんだって」
「ね。綺麗でしょう?」
母方のばあちゃんの葬式だった。
従姉妹やら実の姉やら母やらが集まり、鎧戸越しにお棺の中を覗き込んで、そんなことを話していた。
ばあちゃんの肌はシワまみれなのにも関わらず、その表面だけはつやつやで、本当にただ寝ているだけのようにも見えるし、なにかばあちゃんを模した風船の人形のようにも見えた。
ばあちゃんは生前竹を割ったような人で、ちょっと前に流行ったがばいばあちゃんみたいな、本当にあんな感じの人。道を外れた僕にも唯一変わらずに接し続けてくれ、その人となりを証明するようにお通夜には列席者も多かった。
お坊さんが祭壇の間に入ると、僕は孫ということで姉と受付に並び、まるで新商品のある朝のおもちゃ売り場のように途切れない人列をさばき、手元の記帳に名前を書いてもらっていった。
それが一時間近くもしてから、ようやく上の階から親しい叔母さんが呼びにきて、僕らも焼香へ。
なんだかこんな時ばかり姉と二人組なのがちょっと誇らしかったりしながら、僕はネクタイを締め直すみたいに真面目ぶった顔をして、裏で何度も叔母さんに確認した焼香のやり方を試すのだった。
まだ知らない人たちが僕と同じように焦って何度も確認しないように、ここで簡単に説明しておくと。
まず自分の番がきたら、焼香台から心なし幅をとって進み、遺族、僧侶に一礼。軽く頭を下げる。
改めて正面を向き、遺影を見て、ここでも一礼。
それからようやく焼香台のすぐ傍まで進み、合掌。手を合わせる。
抹香(あの粉みたいなもの)をつまみ、眉間の前で念じて、隣の香炉にくべる。
ここ。ここだ。素人が一番困るのは。
見ていると、これを一回~三回ほど行う人がそれぞれいるのである。そのため、よく知らない人は周りの家族やら親戚の叔母さんに「何回すればいいの?」と聞くハメになる。
そんな僕みたいにならないように、ここでしっかり覚えて帰ってほしい。
真実はこう。
たった一回でいいのだった。
お坊さんに直接確かめたから間違いない。
「あぁ、よくいるんですけどね。実は一回だけでいいんですよ。あとは煙が足りないな、と思ったら余計に焚べていただくくらいで」
厳密には宗派の違いもあるそうだけど、基本的に念じるのは一回だけ。
よく見ていると三回とも念じるのではなく、一回念じて、あとの二回ないし一回は香炉に焚べているだけの叔父さんもいないだろうか。三回とも念じている人が解ってないかはさておき、その人はおそらく解っている人だ。
とにかく僕はというと、そうして抹香を一回念じて、あとの二回は隣に焚べるだけにしてみた。
人と違うことをするのってちょっと緊張するし、勇気がいるけど、こういう試しが好きだし、試せた自分が誇らしくもなるのでオススメだ。
そしたら、改めて遺影に向かい合掌して、振り返り遺族や僧侶に礼をして、来た道を戻って終わり。
僕らは一仕事終えたようにロビーで駄弁った。
問題は次の日の告別式に起こった。
僕ら姉弟は従姉妹に受付をバトンタッチして、今回は初めから祭壇の間でお経を聴いた。
木魚は昔、弟子たちの眠気覚ましのために叩いたと言われているけれど、
お経と合わせて聴いていると、意識が現実感を失い、まるで冥界に連れていかれるような心地がする。
ちーん。
あの鐘の音が鳴るたびに。
ふとばあちゃんの遺影を見た。
僕の席は祭壇の間の手前側。二番目の列。
右隣にはまだ四歳の甥が座り、左には姉が座っている。
「見て。やすらかな顔だよね」
遺影のことではない。
その数日で聴き飽きた従姉妹たちの会話が呼び起こされた。
遺影は生前の笑っている写真。
その写真の中のばあちゃんと目が合う。
目が合う気がする。
こちらを見ている。
ちーん。
そんなことはないのだけど、あるはずがないのだけど、僕だけを見ている気がする。
ガタン。
と大きな音がすると、遺影が傾いた。
ばあちゃんの笑顔が。
左に傾いて。
ガタン。
次は右。
ちーん。
ガタン。
また左。
お経。
まるで額縁の角を足にするみたいにだ。
ガタガタガタ! と音を立てて、僕に近づいてくるのだった。
ばあちゃんの笑顔が。
ちーん。
ガタン。
椅子が倒れる音だった。
僕は声も出せず、その場に尻餅をついていた。
なんで。
助けを求めて、周りを見たとき。その時こそ、僕は心の底から震え上がる思いをした。
みんながこっちを見ていた。
祭壇の間にいるもの一人残らず、僕を見ている。
なむみょうほうれんげーきょう。
ちーん。
無表情な数十人の喪服の集団が僕を見ていた。
前列の両親も振り返って。
姉ちゃんも僕を見ている。
右の甥もこっちを見ている。
僕が動くと皆の視線もそれに合わせて動く。
一瞬たりとも目を離さないように。
それでいて。
無表情だった。
あまりの気味悪さに僕は叫んだ。
「なんだよ!」
答えずにじっと僕を見ていた。
僕は悲鳴をあげて、その場を飛び出した。
ロビーに出てもスタッフの人が。時が止まったようにその場に立ち止まって、僕を見ていた。男の人も、女の人も。
僕は駆け抜けて、階段を足早に降りると、外に飛び出した。
ぷわーっ。なんて車のクラクションが聞こえて、朝の街。
見渡す限りの人という人が僕を見ていた。
野良猫やリードにつながれた犬すらも。
じっと。
こっちを見ているのだった。
身震いした——次の瞬間。
ちーん。
鉦鼓の音で引き戻された。
僕は周りを見る。
お経が聞こえる。
あの祭壇の間だった。
僕は全力で駆け抜けたあとのように荒く息をつき、汗をじっとりかいている。
右には生真面目な顔した四歳の甥が、左には何を考えているのかわからない姉が座っている。
こちらを見てはいなかった。
それから僕は、やっとの思いで祖母の遺影を見た。
笑ってなかった。
曰くありげな、ぶすっとした顔でこちらを見ている。
「なんか言いたそうな顔なんだよね」
昨日の会話が呼び起こされた。
祖母は笑わずに逝った。
それは、良かったことなんじゃないか。
最近はそう思っている。
なぜって。
僕は死にたい人の気持ちが解るから。
その時にはもう生きなくていいことにホッとして、やすらかに笑うんだろうなと。
そう、思うから。
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