排水





 振り向くと、風呂場に影が立っていた。

 二階から降りてきて、廊下を曲がるとすぐ左手の、狭い脱衣所を通して、そのまま開きっぱなしの引き戸から浴室まで見えるのだが、そこにどう見ても異質な影が立っていたのだ。

 小柄な私に比べると、一回り大きく膨れた成人男性大の人型で、全身が気色の悪い光沢を放っている。

 音の発生源もどうやら同じであるらしく、きりきりきり……とまさに木製楽器の擦れるような音がそこから続いていた。

 私は通りがかりざま、視界の端にそれを捉えて間もなく「ひっ」と小さく漏らしてしまった。けれども、こういうときに限って、私ったら鈍臭くて、すぐに走って逃げ出せばいいのに、その場に身構えてじっと凝視してしまうくせがある。

 蜘蛛とかの小さな虫を見つけたときもそうだ。一回、思考がショートするとでも言えばいいのか、あるいはその瞬間に、飛びかかられたらどうしようとまで想像が働いてしまって、ついに動けなくなってしまうのだ。

 観察すると、その黒い影、まさしく人間の髪の毛を全身に巻き付けたような物体に見える。そして、その頭の部分は少し傾いて、風呂場の奥を見据えているようだ。

 ——きりきりきり。

 いや、違う。たぶん違う。

 音が絶えず聞こえる最中、私ははっとして、全身の毛という毛が総毛立つのを感じた。

 逆だ。

 後頭部のように見えている部分が顔なのだ。

 こちらを覗き込んでいるのだ。

 そう気付くや、私は半ば発作的に脱衣所の引き戸を力の限りに閉めていた。

 古いガラス戸でもあって、がらがらがらとやかましい物音が一面に鳴り響いたが、その時は必死だ。まるで気にならない。

 びしゃあんと凄まじい音がしたが、戸の閉まる音ではなかった。影が一瞬のうちに、飛びかかる猫のように、全身の体積を広げてガラス戸にぶち当たったのである。

 絶対に開けてはならない。

 左の手首がやたらと痛んだが、その一心で私は予断なく戸を引く指に力を込めつづけた。

 しばらくすると、それはいつか見たアニメ映画の、不気味なお面をつけた黒い妖怪のように、薄いガラス戸の向こうでぐるぐると蠢いて、また元の人型に戻り、浴室の方に帰っていく。

 その時、ちらと覗けた腕は異様に細く、青白い。まるで青い水彩絵の具でコーティングした枯れ木のようだった。

「どうしたんだ?」

 廊下の奥から声がして振り返ると、おじいちゃんが立っている。

 古い田舎の家で、住む人も昔気質むかしかたぎだから、昼でも雲がさせばとたんに暗く、日が差していても、隅はやたらと薄暗い。

 この時もおじいちゃんの表情は、影でよく見えなかった。

「ご、ごめん……なんか、虫、かな? 虫みたいのが見えて……」

「あはは、なんだ、そんなことか」

「いきなり音がするから、びっくりしちゃったよ」

 祖父の後ろからはおばあちゃんが続く。

 薄暗くて顔が見にくいけれど、そんな他人の存在だけで私はいたく安心してしまって、力が抜けた。

「私もいきなりだったから、びっくりしちゃった……」

 そんな風に笑いかけて、居間に戻る二人の後に続いて、私も廊下の先の台所に飲み物を取りに行った。

 ガラス戸の向こうの影は風呂場の真ん中できりきりと音を立てていた。

 台所もやたらと薄暗さが目立つ。昼だけど、あまり灯りをつけない家で、一日中どこかしらに影が差す。家の外が明るければ明るいほど、家内は薄暗く、じんわりとした湿気に満ちるようだった。

 その明暗が子供の頃は夏休みの味、というか風情を感じたものだったけれど、今は……特に今日なんかはやたらと気味悪さばかりが気になってしょうがない。先ほどのことから神経質になっているのかもしれない。

「スイカ食べるか、スイカ」

 おじいちゃんが言って、私は麦茶をコップに注いだところで、一口飲みながら頷くけれど、おじいちゃんは重ねてこう尋ねた。

「食べる?」

「うん、食べるって」

「そうか。最近、耳が遠くてな」

「ううん。いいから。私、切ろうか」

「切れるのか。危ねぇぞ。包丁、手、気ぃつけろよ?」

 二人の前では私はいつまでも子供扱いなのだった。それで三人分をカットすると、それはそれで「大したもんだ」とかなんとか言われる。いったい、いくつだと思っているのやら。大した料理こそできなくても、私だってスイカくらいは切れる。

 三人でスイカを食べたものの、妙に実感がわかない。

 二人はほとんど手をつけず、結局私ばかりが食べていたような気がする。

 二人はどこか、顔が暗い。

 目がいつもより落ち窪んで、まるで黒い空洞のように見えて仕方がない。それでいて二人も、こちらをじっと見るくせがあるから。

 夜になると、シャワーを浴びなければいけない。

 例の風呂場に立ち入ることはいとわれたけれど、人間の義務として……いやいや、私個人の性質的に汗臭いのは嫌なので、必ず一回は入らないと気が済まないから。

 怖がって、一日の臭いがとれないままベッドに入るよりも、思い切って入って、さっぱりした方が数段心地もいいだろう。

 しかし、やたらと疲れている。特別、何かしているというわけでもないのに、ひどく肩が重かった。手首の傷が痛い。その不安定感が反対に恐怖を束の間忘れさせてくれた。

 全裸になって浴室に入ると、私は最初に排水溝を確認した。

 予想していた通り、そこには黒々とした髪の毛がべったりと張り付いていて、もうそれだけで震えるくらい気色が悪かったけれど、夜の浴室は凍えるくらいに寒くて、私はそれが我慢ならず、いつものように身を縮めながら、すぐさまシャワーの蛇口をひねると、温水になるまで地面に流してから、フックにかけて全身に浴びせかけた。

 身体が温まってくると、次いでというように、排水溝に当てもした。

 それから髪を軽く流して、シャンプーを取り、髪全体に馴染ませるように泡立てていく。

 それから十分に泡が立ってから、指の腹で頭皮を押さえるようにしてから、マッサージしてから、

 議事録をコピーしてから、資料を作成してから、先輩に確認してもらってから、課長にお伺いを立ててから、

 きりきりきり。

 ちょうど頭を洗い終え、洗剤を流しているときだった。

 頭を流しているときに、背後に気配を感じるなんて、よくあることだ。きっと気のせいだ。そう思いたかったけれど、私ったらまたしても鈍臭くて、自分でもいやになるくらい、もう昼のときみたいに身体が強張っていた。

 指先だけしゃかしゃか、けれど気持ち急ぎ足になるみたいに、音も激しく、動きも苛烈になって、頭の上をかいている。

 その合間にも、きりきりきりと後ろの音が大きくなる。

 近づいてきている。

 いやだなぁ、やめて、もうほんと、ゆるしてください。

 私はもう気付けばそんな風に小声で呟いて、息も荒くなってくる。

 逃げ出したいのに……。

 髪の毛が長い髪の毛がまとわりつくように、背筋を、首根っこを、肩先まで垂れてくる。血のようだ。湯船に溜まった水がじんわりと赤みを帯びて、影が伸びて、ついに息遣いまで聞こえてきた。

 すぐそこにいる。

 息が首に当たっている。

 ひどく生臭い。

 今にも気を失いそうだった。

 なんでこんなことに。

 でも、気のせいだ。疲れているんだ。そんなものがこの世にあるわけがない。この世にあるわけがない。

 私は独自の思考転換で、負けん気を発揮して、勇みよく振り返ると、ばっと目をこじあけた。

 いるはずのないものがそこに立っていた。

 油に塗れたような重い黒い髪を垂らして、正面だけ分けている。

 その間に覗いた顔は、焼死体のようにしわくちゃで、目が落ち窪んで、唇がなく、空洞が真っ黒だった。

 私は悲鳴をあげた。

 影が広がって、飛びかかってくる。

 シャワーが終わったら、入ろうと思った湯船はとっくに真っ赤だった。

 と——思ったところで、目が覚めた。

 私は明るい日差しの中で絶叫しながら飛び起きたのだ。

 けれどもまだ動悸がしていた。息も荒い。冬なのにパジャマが下着までびっしょりだった。

 喉までからからで、何か飲もうと思い、着の身着のまま部屋を出た。

 もう昼過ぎだ。夢の内容もそうだけど、何か大切なことを忘れてしまっているような気がして、血の流れる手首を押さえ、重い頭を傾げながら、階段を降りていく。

 足元から何やら妙な音が聞こえてくる。台所に続く廊下に差し掛かったところ、きりきりきりと音がするので、振り向くと、風呂場に影が立っていた。

 小柄な私に比べると、一回り大きく膨れた成人男性大の人型で、全身が気色の悪い光沢を放っている。音の発生源もどうやら同じであるらしく、きりきりきりとまさに木製楽器の擦れるような音がそこから続いていた。

「ひっ」

 と私が小さく悲鳴をあげて、ガラス戸を閉じると、手首が痛んで、廊下の奥からおじいちゃんが顔を出した。

「どうしたんだ?」

 眼窩が黒い空洞になった骸のような顔したおじいちゃんとおばあちゃん。

 無表情だった。

 死んでも地獄だ。






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