第6話 黄眼の少女、再び 前編



六話 黄眼の少女、再び 前編



 夕日が眩しい時刻になった頃、キリの良い所で神社の掃除を中断し、残りは明日やることにした。


 三人は道具を片付けてから幽子の親戚の家に戻って来ていた。


 幽子が台所で晩御飯の準備をしている間、果南はリビングにある炬燵で問題集を解いており、真は果南の隣に座り本を読んでいた。

 炬燵布団がセットされたままだったが、五月ということもあり電源は切っている。


「ねぇマコ兄ィ、この問題はどうすれば良いの?」


 真は本を開きながら横目に問題を見た。その問題は少し前に教えた問題の応用問題だった。


「さっき教えたやつだから少しは自分で考えろ」


「そんなぁ」


 果南は頰を膨らませて抗議したが、真は鼻で笑い視線を本に戻した。

 果南はもう一度問題を読んだが、途中で手が止まってしまった。

 突破口の見えない問題とのにらめっこを続けていると、美味しそうな匂いが果南の鼻をくすぐった。

 

「じゃじゃーん。オムライスの完成でーす」


 幽子は笑顔を見せながらダイニングにあるテーブルにオムライスの載ったお皿を並べた。


「わーい! オムライスだ!」


 果南は広げていた問題集にシャープペンシルを栞代わりに挟むと勢いよく立ち上がった。


「少しならおかわりもあるから、足りなかったら言ってね」


「はーい」


 果南は一番乗りで椅子に座りスプーンを握った。


「いただきまーす」


 果南がフワフワの卵にスプーンを刺そうとした瞬間、真に手首を握られたためにスプーンは宙で静止した。


「先に手洗い」


「あ、そうでした」


 真が果南の手首を離すと、果南はスプーンを置いて立ち上がった。

 真と果南が手を洗っている間に、人数分のお茶の入ったコップを幽子は用意し終わっていた。


「今度こそ、いただきまーす」


 果南がスプーンを卵に差し込むと、トロリと卵が流れ出し、下にあるチキンライスに染み渡っていった。果南は一口分になるようにスプーンで掬うとそのまま口へと運んだ。

 卵の甘味とケチャップの酸味が果南の頰を刺激した。


「美味しい!」


「フフ、ありがと」


 真は静かに「いただきます」と言ってから果南と同じように一口食べた。


「ん、美味しい」


「良かったぁ」


 幽子は二人が食べる姿を満足そうに眺めてから、自分も食べ始めた。

 果南がテレビの電源を入れると、地方のニュース番組が流れていた。


『ゴールデンウィークの初日は、観光地は何処も賑わっていたそうですよ』


『そうなんですねぇ』


『何か気になるイベントとかありますか?』


『そうですねぇ。やっぱり、鳴間祭り、ですかね』


 真は「ずいぶんとフリが下手だな」と思ったものの、口に出すのは憚られたため黙って画面を見ていた。


『今年の鳴間祭りはスゴいんですよ。まだ詳しい数字は出てませんが、来場者数が百万人を突破したんじゃないかと言われてるぐらいですから』


『百万人!? それは凄いですね。いつもと何か違ったんですか?』


『そういうわけではないのですが、昨今のSNS等で「あの巨大な白蛇の凧が映える」とのことで若者が多い傾向にあったそうです』


『白蛇の凧ですか。迫力がありそうですねぇ』


『実は本日の映像が、あるんです。早速見ていきましょう』


 画面がスタジオから祭りの会場である星ノ浜海浜公園へと切り替わった。画面に映っているのは凧揚げ会場のようだった。


『見てください。法被姿の男の人達が掛け声と共に太い綱を引っ張っています』


 法被姿にハチマキを巻いた男達が掛け声を出しながら綱を懸命に引っ張っている様子が映っていた。

 そして画面が空を映すと、そこには白い大蛇が空を泳ぐように舞っていた。


 果南は頬張っていた分を呑みこむと口を開いた。


「マコ兄ィも凧揚げいつかやるの?」


「いや、やらないけど」


「どうして?」


「どうしてって言われても。そ祭りに参加したいってほど好きなわけじゃないし。出店回るぐらいで良いよ」


 真は果南と違い、祭りに限らず、知らない人が大勢いるような所だと気疲れしてしまい心の底から楽しめない性分だった。


「ふぅん」


「カナンちゃんは凧揚げやってみたいの?」


「やってはみたいけど、でも凧揚げって男の人がやるやつでしょ?」


 果南がテレビの画面を指差した。果南の言う通り、凧揚げの綱を握っているのは全員男だった。

 幽子は顎に人差し指を当てて昔の記憶を辿り始めた。


「私も最近は行ってないから分かんないけど、私が小学校低学年の頃は、危なくない綱の端っこの方なら持たせて貰えたけどね。それに大きな凧が目立つけど、小さな凧は女性も交じって凧揚げしてたよ」


「そうなんだ」


「綱を握って凧を操るってわけじゃないけど、何というか、一体感みたいなのは感じられて楽しかったよ」


「楽しそう! 今年は無理だけど、来年に私がやりたいって言ったらやらせてもらえるのかな?」


「やらせて貰えると思うけどなぁ。でも一応、源ジィに聞いておいてあげるね」


「ありがと!」


 果南が笑顔でお礼を言ってる横から、真は浮かんだ疑問について訊ねた。


「え、源ジィ、今も祭りに出てるの?」


「何年か前から凧揚げには行ってないけど、夜の部の方は出てるよ。まぁ、出てると言っても、関係者という名目で集まってお酒飲んでるだけだけど」


「ハハ、源ジィらしいね」


「あ! 今日はクイズの日だ。チャンネル変えても良い?」


「私は良いよ」


「別に何でも良いよ」


 果南は二人の了承を取ってからリモコンで番組を変えた。


『本日最初の挑戦者はこの方です!』


「あぁ、たまに母さんが見てるやつか」


「面白いからマコ兄ィも見てよ」


「バラエティは見ないからなぁ」


 三人はオムライスを口に運びながら、次々と出される小学校程度の問題に目と耳を傾け始めた。

  



「ご馳走様でした!」「ご馳走様」


「はい、お粗末様でした」


 クイズ番組が終わる頃、三人は食事を終えた。


 三人がそれぞれ片付けや入浴の準備を始めたタイミングで真は言った。


「入浴の順番はどうするの? 僕は最初の方が良いの? 最後の方が良いの?」


 真にとっては当然の質問だったが、果南と幽子は「何でそんなことを聞くのか」と言いたげな表情を見せた。


「果南はどっちでも良いけど」


「私も、別に。最初でも最後でも良いよ」


 予想外の答えに真は開いた口が塞がらなかった。


「え、そういうもんなの?」


「先か後かで何か違うの?」


「いや、それは」


 真はそのまま続きを言おうとしたが、姉や妹のような存在ではあるものの血の繋がりが無いという一線が、喉まで出かけた言葉を呑み込ませた。


「マコちゃんはどっちが良いの?」


「それは二人に任せるけど。本当にどっちでも良いし」


「果南もどっちでも良いよ」


「んん、じゃあねぇ」


 幽子はしばらく考え込むと、名案を思いついたのか「あっ」と声を漏らした。


「だったら一緒に入るのはどう?」


 幽子はニヤリと笑いながら言った。

 一方真の表情は固まっていた。


「いや、それはない」


「アハハ、それはさすがに恥ずかしいよユウ姉ェ」


 果南は笑っていたが、幽子の目に冗談の色は浮かんでいなかった。


「そう? 私は別に良いけど」


「僕は良くない」


 真は頰を赤く染めてはいるものの、動揺していないかを装うように素っ気なく答えた。


「ふぅん、そっか」と幽子は少しだけ残念そうに呟いてから「じゃあマコちゃんからで良いんじゃない? 私が最後に入ってそのまま簡単に掃除するから」と言った。


「ユウ姉と果南がそれで良いなら僕はそれで良いけど」


「果南はそもそも順番とか気にしてないし」


「じゃあ決まりね」


 真は高鳴る心臓の音が二人に聞こえないかヒヤヒヤしながら、自分の荷物を取りに行くという体でその場を離れた。


「僕がおかしいのか? いや、絶対にそんなことはない」


 脱衣所で服を脱いでいる間も先程のやり取りのことを考えていた真だったが、結局納得することは出来なかった。




 浴室に入った真が蛇口を捻ると、冷たい水が出てきた勢い良く出てきた。


「うわ、冷てッ」


 真は慌ててシャワーから身体を逸らしたが、数秒後には温かいお湯が出てきた。

 頭の先からシャワーを浴びて、一日の肉体労働の汗と疲労を流しながら、真は幽子の言葉を思い出していた。


『だったら一緒に入るのはどう?』


『そう? 私は別に良いけど』


 彼女の言葉には嘘の気配がまるで無かった。


 ”他人が意図的についた嘘を嘘だと見抜く”事ができる不思議な力を持つ真は、幽子の言葉に嘘偽りが無いことをハッキリと理解していた。


「ユウ姉にとって、僕はずっとあの頃のままってことなのかな」


 真が幼稚園に通い始める頃には、ユウ姉はずっと側にいたような覚えがあった。

 アルバムには、記憶にはないが真が幽子と源ジィと一緒にお風呂に入っている写真もあった。

 途中、距離が離れた時期があったものの、共に過ごした時間はあまりにも長く、二人の距離を曖昧なモノにしていた。


「なんか調子狂うなぁ」


 真はシャワーの横に並んでいるボトルの中からシャンプーを見つけると必要分だけ手に出した。


「知らない香りだなぁ。まぁ、そりゃそうか」


 その後、真は入念に頭と身体を洗った。

 全身を洗い終わってから浴槽の蓋を開けると、温かい湯気が立ち込めた。

 真は浴槽に足を入れようとしたタイミングで、この後二人が入ることを想像し、どうにも入るのに躊躇してしまい、結局浴槽には浸からずに浴室を後にした。




「お風呂空いたよ」


 寝間着姿に着替えた真がリビングへ向かうと、果南と幽子の二人は炬燵に入ってテレビを見ていた。


「じゃあ果南が行ってきまーす」


 果南は予め準備しておいたのであろう着替えを抱きながら炬燵から出て、真の横を通り過ぎた。


「マコ兄ィ、覗いちゃ駄目だからね」


 真は顔をしかめながら言った。


「誰が覗くか」


「マコ兄ィが覗いたらメロメロになっちゃうからね」


「馬鹿言ってないでさっさと風呂入れ」


「もう、照れちゃって」


「照れてない」


 果南が脱衣所に入るのを確認してから真は炬燵に入っていた幽子の正面に座った。

 幽子は動物の生態を紹介する番組を見ていた。


「マコちゃん、お茶飲む?」


 幽子は炬燵の上のペットボトルのお茶を指さしながら言った。


「え、あぁ、じゃあ飲もうかな」


「コップは、えぇと」


 幽子がキョロキョロと見回したが、炬燵の上には幽子の分のコップしか置いてなかった。


「さっき洗っちゃったか。用意するね」


 幽子が立ち上がろうとするのを真は制止して立ち上がった。


「いいよ。僕が取ってくるから」


「そっか」


 真がコップを持って炬燵に戻ると、幽子が真のコップにお茶を注いだ。


「これぐらい?」


「うん、ありがと」


 真は手渡されたコップに口を付けると二口分飲んだ。


「何の動物を紹介してるの?」


「ヤシガニだって」


「ヤシガニって、なんかデカいカニでしょ?」


「名前にカニってあるけどヤドカリの仲間らしいよ」


「へぇ、そうなんだ」


 ちょうどCMが始まってしまったことと、話が上手く広がらなかったことにより、真にとって沈黙が気になる空間になってしまった。


「ユウ姉は、さぁ」


「なぁに?」


「蛇ノ目湖にある小島のこと知ってる?」


 蛇ノ目湖の小島といえば、真と果南が幽子と合流する前に見た小島であり、オカルト雑誌に書かれていた祠と祭壇と「口」と呼ばれる縦穴の開いた小島のことである。


「蛇ノ目湖の小島? あぁ、真ん中にポツンとあるね」


「あの小島に何があるのか知ってる?」


「うーん、祠があるってのは聞いたことがあるけど、そのぐらいしか知らないかな」


「そっか。そうだよね」


「どうしていきなり蛇ノ目湖の小島のことを?」


「いや、朝神社に行く前に湖の近くを通ったんだけど、その時に果南に聞かれて。僕も源ジィかユウ姉に祠があるよって話を聞いたような気がしてたんだけど、あんまり自信が無くて」


「カナンちゃんが? そっか。確かに三人で此処に来たのってずいぶん前だからカナンちゃんは覚えてなかったのかもね」


「何をしに来たんだっけ? 三人で来たことはボンヤリと覚えてるけど、何をしたのかは覚えてないんだよね」


「マコちゃんが『カブトムシ捕まえたい!』って言ったから、三人と源ジィとでカブトムシを捕まえに来たんだよ。でもカブトムシとかクワガタを捕まえやすい時間って朝か夜だから、昼間に私達が行っても何も捕まえられなくて。結局、お兄ちゃんと源ジィが次の日の朝早く捕まえに行ったんだよね」


 幽子は遠い日を思い出すように、微笑みながら言った。


「そうだったっけ?」


 真は幽子の話を聞いても漠然としか思い出せず、あまりピンと来なかった。


「うん。捕まえたカブトムシとクワガタを私の家で飼ってたんだけど覚えてない? 玄関の所に大きなガラスのケースを置いて」


「あぁ、そういえば玄関におっきなケースがあったような。でもクワガタもいたっけ?」


「一緒に捕まえたクワガタは確かカナンちゃんが手の上に乗せてたらどっか飛んで行っちゃって。フフ、カナンちゃんが大泣きしてるのにつられて私もマコちゃんも大泣きしたよね」


 真の脳裏に過ったのは幽子の家の玄関で泣いていた光景。しかし、幽子の説明を聞いてもそれ以上のことは思い出せなかった。


「あぁ、なんか玄関で泣いたのは覚えてる」


「フフ、今夜捕まえに行ってみる?」


「いや、さすがに五月にはいないでしょ」


「冗談だよ。冗談」


 幽子は口元を手で隠しながら笑った。

 話が途切れ、再びテレビの音だけが聞こえる空間になった。

 すると、浴室の方から果南の声が聞こえたような気がした。


「なんか、果南の声が聞こえるような」


「きっと歌ってるんじゃない?」


 幽子は気にした素振りも見せなかったが、真はため息をつきながら言った。


「アイツ、ユウ姉が後から入ることを忘れてるんじゃないの?」


「私は良いよ別に。カナンちゃんも今日一日疲れただろうし。別にそんな遅い時間じゃ無いからゆっくり寛いで貰って大丈夫」


「ユウ姉が良いなら良いけど」


「本人が良いと言うならそれ以上とやかく言う必要は無いな」と思った真は、朝から気になっていたことを聞いてみた。


「そういえばユウ姉。果南が神社の近くで女の子が視えるって言ってた話だけど」


「ん? そういえばそんなことがあったね」


「ユウ姉は本当に視えなかったんだよね?」


「うん。視えなかった」


 幽子は即答した。

 その答えを受けて真はゴクリと唾を飲んだ。


「ユウ姉の霊感は、昔みたいに、今もあるの?」


 幽子は一瞬躊躇うような表情を見せたが、相手がもう子供ではないことを思い出し、ゆっくりと言った。


「あるよ。でも、お兄ちゃん程の霊感があるわけじゃないから、全ての幽霊が視えるわけじゃない」


「じゃあ、果南はユウ姉には視えない幽霊が視えてたってコト?」


「うーん、多分ね。今からするのは仮の話だよ。仮に、カナンちゃんが言ってた女の子の正体が幽霊だった場合、私が視えなかったのは強い意志を持たない霊だったからだと思う」


「強い意志? 恨みとかってこと?」


「成仏せずに現世に残る程の強い意志ってのは、その殆どが後悔だとか恨みみたいな負の感情なんだけど、全部が全部そういうわけじゃないよ。中には優しさ、というか心配だから、みたいな感情のこともある」


「心配? 残した家族が心配、みたいな話?」


「うん、そう。小さな子供を残したまま亡くなった親とかが多いかな」


 真は勝手にそういうのが守護霊みたいなものなのだろうか、と納得した。

 しかし、気になる点があった。


「でも、果南は少女って言ってたような」


 真の返しを予想していたかのように幽子はすぐに答えた。


「言ってたね。だから、死んだことを理解する前に地縛霊として縛られちゃったってパターンと、何かしらのやりたかったことをやれないまま亡くなった事に対する後悔というか心残りが原因で現世に残ってるパターンが考えられる、かな」


「果南にしか視えないってのは大丈夫なの?」


 幽子は目を瞑り、胸を膨らませるほどに大きく息を吸ってから、ゆっくりと肺の中の空気を出し切った。


「多分、ね。もしもカナンちゃんに対して攻撃の意志を持っていたとしたら、私にも視えてるはずだから。負の感情ってのは正の感情よりも霊としての存在を強くするから、幽霊の負の感情が強ければ強い程、霊感の薄い人にも視えるようになるの。事件とか事故とか、過去に何かが起きた心霊スポットに行くと色んな人が何かしらの経験をする、っていうのはそういう原理。もちろん全員に当てはまるわけじゃないけど、生きた人間に実害を齎すレベルの力を持った霊なら私が視えないはずがない」


「そ、そうなんだ。じゃあ、ユウ姉には視えなかったってことは、少なくとも強い負の感情は持ち合わせてないから大丈夫ってこと?」


「まぁ、そう、なのかな」


 幽子はそう言ったが、何処か気がかりな事があるかのように眉をひそめた。


「何か気になることがあるの?」


 幽子は少しだけ間を開けてから言った。


「あるよ」


「どんなこと?」


「私にも視えなかった理由が『カナンちゃんが視てたのはそもそも幽霊じゃない場合』のこと」


「ん?」


 真は幽子の言葉が理解出来ず、頭の上にハテナマークがポンと現れた。


「え、どういうこと? 幽霊じゃないなら他に何があるの?」


「神様」


 幽子はハッキリと、そこに一切の冗談が存在しないことを声色と表情で示した。

 真は目を丸くし開いた口が塞がらなかった。


「か、神様?」


「神社の中でも蛇ノ目神社は結構強い力がある聖域だから、存在の薄い幽霊が近くにいるってのがイマイチ納得出来ないの。力のない幽霊は聖域に近付いただけで力に抗えずに消滅するだろうから。そう考えると、カナンちゃんが見たのはもしかしたら神様かもしれないって話。証拠は何も無いけどね。もしも神様だったとしたら、鳴萬我駄羅様が、ね」


 真は頭の先から足の先までゾッと冷えるような感覚が疾走した。


「え、鳴萬我駄羅って」


 真は昼間読んだ胡散臭いオカルト雑誌のことを思い出していた。

 もしも雑誌を読んでいなければ「ナルマンガダラ」という音から「鳴萬我駄羅」等という漢字の羅列が脳内に浮かび上がるはずがなかった。


「蛇ノ目神社に祀られている白い大蛇の神様の名前だよ。鳴萬我駄羅様はこの辺りの守り神なんだけど、昔々、私の御先祖様の草薙様が人々に悪さをしていた鳴萬我駄羅を懲らしめたってのは聞いたことがある?」


「う、うん。草薙神社にある刀剣で大蛇を懲らしめたって話だよね? 源ジィが話してたのは覚えてるけど、鳴萬我駄羅って名前までは正直」


 雑誌で見て知った、とは言えなかったし言わなかった。


「鳴萬我駄羅様がカナンちゃんの元に現れたのだとしたら、私に視えなくてもおかしくはないの」


「な、なんで?」


「神様にとって、姿を見せる相手を選ぶことぐらい造作も無いことだから」


「そ、そうなの?」


「マコちゃん、審神者(さにわ)って聞いたことある?」


「ごめん、聞いたこと無い」


「そっか。大丈夫だよ。説明するから。ものすごくザックリ言うと、審神者っていうのは神託を受けて神意を皆に伝える役目の人のこと。もちろん色々な神様がいるから全ての神様が、というわけではないけれど、基本的に信者一人一人の前に現れることはないの。もちろん姿を見せないだけで何もしてくれないって意味じゃないからね」


「イタコみたいなイメージ?」


「それは、ちょっと違うかな。確かに神事を執り行うこともあるけど、うぅんとねぇ」


 幽子がどう説明しようか考え始めたので、真は「その話は保留にしよう」と先を促した。


「分かった。じゃあ一旦話を戻すけど、鳴萬我駄羅様が私やマコちゃんには姿を見せたくないけど、カナンちゃんの前にだけ現れることを望んだ場合は、カナンちゃんにしか視えないことになるの」


「うぅん、視える相手を選んだってのは分かったけど、じゃあなんで果南を選んだんだろうね?」


 当然の疑問だったが、その答えを幽子は持ち合わせていなかった。


「それは分かんない。そもそも、カナンちゃんが視えていたのが鳴萬我駄羅様かどうかも分かんないから。ただ、何の意味もなく神様が個人に何かをするってことはまず無いから大丈夫だとは思う」


 真は幽子の話を聞いている内に、胡散臭いオカルト雑誌にあった言葉を思い出し、無意識に呟いていた。


「器渡り」


「え?」


「ユウ姉は器渡りって聞いたことはある?」


「『器渡り』? 聞いたことないよ」


「そっか」


「なぁに? その、器渡りって」


「えっと、なんかオカルト雑誌に書いてあったんだ。蛇ノ目には器渡りっていう儀式が今も残っているって話が」


 幽子はあからさまに疑いの目を向けながら言った。


「聞いたこと無い。どんな儀式なの?」


 幽子の表情を見た真は続きを話すか迷ったが、幽子の目は中断することを許さないと言わんばかりにまっすぐと真のことを見ていた。


「幼い子供の身体を、鳴萬我駄羅に明け渡す儀式みたいなことが書いてあったよ。もしかしたら、果南が視ていたのは器渡りで人間の身体を手に入れた鳴萬我駄羅だったり、なんてそんなことあるわけが」


「マコちゃん」


 いつものフワフワとした言い方ではなく、刀で首を切り落とさんとするような鋭さを持った言い方で、幽子の言葉が真の言葉を遮った。


「え? なに?」


「マコちゃんは、その話を信じているの?」


 幽子の目は笑っていなかった。真は器渡りという言葉を幽子に話したことを後悔した。


 少し考えればこうなることは分かっていたはずだった。


 真が不快に思ったのと同じように。いや、真と違って幽子は草薙神社の人間であり、人一倍信仰に関する気持ちが強い。そんな幽子に対して神様絡みの陰謀論のような話をすれば彼女の怒りに触れるのは至極当然のことだった。


「し、信じてないよ」


「そっか。そうだよね」


 幽子の目は依然として真の両の目を射抜いていた。

 真は蛇に睨まれた蛙のように瞬き一つ出来なかった。


「マコちゃん。神様は人間より上位の存在だから、もしも神様を怒らせたら本当に大変なことになるからね。私や源ジィにはどうすることも出来ないかもしれないの。だから、そんな作り話を信じたら駄目だよ。絶対に。不敬は無知よりも悪いことだからね」


「う、うん。分かった。ごめん」


 真の全身から溢れる謝罪の意を感じ取ったのか、幽子の表情はいつもの柔らかいモノに戻った。


「うん。いいよ」


 今日一番の気まずい雰囲気がリビングを包み込んでいた。

 陽気な音楽を流すCMに苛立ちさえ感じる程に。




 ここで一度、果南が浴室に入った時刻に遡る。



「フンフフンフーン」


 果南はシャワーで髪をしっかりと濡らしてから、鼻歌まじりにシャンプーのボトルを探した。

 ポタポタと髪の先から垂れる雫が足の甲に当たった。


「これかな?」


 果南は必要分だけ手に出すと、泡立てながら髪を洗い始めた。

 垂れてきた泡が目に入らないように気を付けていたが、額をスッと通った泡が果南の目に染み込んだ。


「痛ッ!」


 果南の片目にチクチクと染みるような刺激が疾走した。

 果南は目が開けられなくなってしまい、手探りでシャワーのレバーを探した。


「あ、あれ? この辺だったよね?」


 自宅の浴室と勝手が違うためになかなかレバーを見つけられない。目の痛みと見つけられないことによる焦りが果南を急かした。


 その時、手は何にも触れていないのに頭の先にお湯がかけられた。


「はい」


 聞き覚えのある声と共に、果南の手にシャワーヘッドと思われる固い物がぶつかった。


「あ、ありがと」


 果南は何の疑問も持たずに誰かの声に返事をし、手にコツンと当てられたシャワーヘッドを握った。

 顔にシャワーを当てて泡を流し終わってから果南は隣を見てギョッとした。




 昼間会ったナルマと名乗った少女が生まれたままの姿で果南の横に立っていた。

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