第38話 窮地
「一人目で当たりを引くとはな。相変わらず私の勘は冴えている」
ゴドールは自己満足げに自分の髭を撫でる。
「当たりって……あなたは……」
立ち上がり、頭を整理するように呟いたミリエラの言葉を、彼は聞き逃さない。
「ははは。動揺が少ないな。ナイトヴェイル家の子飼いになっているのは本当と言うことか」
「近寄らないでください!」
予備の仕込みナイフを取り出し、切っ先を向ける。
だが、ゴドールは意に介さない。
その歩みは止まらない。
「フン。卑しい魔女が、この私に傷をつけられると思うな」
「本当に斬りますから!」
肩口を狙って振り抜く。
決めるつもりだったのに、彼は恰幅からは想像できない俊敏さで避けた。
「僅かに躊躇が残ったな。ほほほ、魔女様は我々人間にご配慮してくださるので?」
「……っ」
心底、馬鹿にしたような口ぶりだ。
そして、ミリエラが体勢を立て直そうとする間へ巧妙に入り込み、腹部へ一撃を加える。
「う、ぐっ」
重い。
内臓が吐き出されそうな痛みだ。
耐えきれず、その場に膝から崩れ落ちていく。
その隙をゴドールは逃さない。
強烈な蹴りがミリエラの頬を襲う。
「がは……っ」
口の中が切れた。血の嫌な味がする。
地を転がるミリエラを見下ろすゴドールの目に、哀れみなど欠片もない。
「さてさて。研究所のお偉方は大層ご立腹だぞ~? 貴様があの日届かなかったせいで、わざわざ訪れてくださったVIPの方々を楽しませることもできなかった! まぁ、荷運びすら満足にできなかったグズ二人を魔獣に食わせるショーで何とかその日は収めてもらったがな」
怖い。
……怖い。
アーギュスト家にいた頃に受けた暴力とはまた異なる痛みだ。
ゴドールの振るう暴力は、腹いせににモノを壊す時のそれと変わらない。
そんな男の指示で研究所などに送られたら……。
ミリエラは迫りくる怖気をすんでの所で振り切る。
(ダメです……! 今ここで私が捕まったりしたら、皆の恩に、何も報いれない……!)
せめて、距離は取らなければ。
真意を悟られないように、少しずつ、しかし素早く後ずさる。
「何だ。二発も食らっておいて、まだ戦意があるとはな。その動きは怖気付いた者の動きではない」
(しまった……!)
付け焼き刃のミリエラなど相手にならない。
ゴドールには悠然とした余裕がある。
にも関わらず、張り巡らせた警戒は解いていない。
……隙がない。
先程ゼナヴィスとの一戦で半ば心を挫かれたことが響いてくる。
勝てない。
新たに掛けられた強力な
イクスに、連絡も取れない。
(イクス様……)
何かあった時の対処。
事前に決めていたもの。
逃げるか、助けを呼ぶか。
無理な応戦は命を失う。
逃げられないのであれば、助けを呼ぶしかない。
「たす、けて……」
絞り出したその声は、藁にもすがるような、涙混じりの懇願にすら聞こえる。
そんな彼女を、ゴドールは嘲笑する。
「今更命乞いか? ははは……はははははは! 愚かなメス犬風情が、偉そうに人語で喚くな!」
ずかずかと近寄り、畜生の躾を超える手荒さで蹴り飛ばす。
体が悲痛な音を上げ、息が詰まる。
現状を打破しようとする思考が掻き消えていく。
もう、ダメかもしれない。
幸せな夢は覚めてしまったんだ。
セラ、ミリス、リーファ、イクス……。
自分の人生に再び色を付けてくれた素敵な人達の顔が薄れていく。
ああ、私は今から、現実に帰るんだ。
嫌だ……。
そんな現実、嫌だ……!
……。
…………。
………………。
私――まだ、嫌だ、って……ちゃんと感じることができたんだ。
アーギュスト家に居た頃は、何もかも諦めて、ただ物語に逃避して、死を待つだけだったのに。
少しは、変わったの、かな。
変われてるのかな。
なら、もっと変わりたい……。
皆に見合う、人間になりたい……!
バルコニーでイクスに掛けられた言葉が蘇る。
『ミリエラ。もし君が今の自分を変えたいと思っていて――俺に何か手伝えることがあるなら、いつでも頼ってほしい』
そうだ。
私は……自分を変えたい。
どう変えるのかとか、どう変わりたいのかとか、そんなのはまだわからない。
だけど。
少なくとも。
今この瞬間は、生きるのを諦めちゃいけない。
「わたしは、あきらめ、ません……!」
「孤立無援のこの状態で何を抜かす? いい加減その不快な口を閉じろ!」
蹴りが飛んでくる。
体を捻り、ギリギリのところで避ける。
意志だけで無理やり体を動かした。
そのせいで、たったこれだけの動きでも息が上がりきり、込めようとする力の全てが抜けていく。
次が来たら、避けられない。
「イクス様……助けて……っ!」
今出せる、最大の声を振り絞って叫んだ。
届かないかもしれない。
いやきっと、届かないだろう。
それでも、最後まで諦めたくなかった。
希望を、捨てたくなかった。
「無駄だ。通信もできないこの隠し部屋に来れるはずが――」
言い終わるより早く、ゴドールが異変に気づく。
頭に何か破片が当たったのだ。
上を見上げると、天井にあり得ない大きさの亀裂がいくつも入っていた。
崩れる。
ゴドールの頭上に天井が降り注ぐ。
「な、何だッ」
後方に飛び回避するゴドール。
天井に次いで部屋に降り立ったのは、銀髪灼眼の男。
イクスだ。
ゴドールに剣の切っ先を向けたまま、彼が振り返る。
目が合う。
「遅れてすまない」
悔しさを滲ませた声。
返事をするよりも早く、涙が溢れた。
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