第33話 バルコニーにて 後編

 ――そうだ。

 私が、アーギュスト家にいた時の記憶で一番覚えているもの。

 ……ティア姉様の笑顔だ。

 優しく微笑みかけてくれながら、本を読んでくれた。


 ティア姉様がいなくなったあの日以降は、何かが、いや、全てが壊れてしまって、現実なのか夢なのかさえわからずにいた。

 違う。

 わからずにいたかった。


 きっと全て現実なんだろう。

 だが、一変して私を忌むようになった家族。あの家族は、本当に家族だったんだろうか。


 悠久にも思えた十三年間、そこから束の間の解放を経て、更に奈落へ落とされた。


 そして、たまたま救われた。


 でも、私はまだ……


「私はまだ、夢の中にいるのかもしれません」

「夢?」

「はい。ずっと悪い夢を見ていて、今はたまたまいい瞬間。今も昔もずっと、ずーっと夢の中だから、何が起きてもどこか現実味がなくて、それでなんとなく平気なのかな。と思います」

「夢、か」


 イクスが自分のグラスに注がれた水を一口啜り、遠くを見つめる。

 彼が漏らした声の感情を量り損ね、不安な気持ちが顔を出す。


「……いい夢になったのなら、覚めないでほしいものだな」


 だが、彼は柔和な笑みでそう続けた。

 月明かりに照らされた銀髪のせいで、イクスがまるで天使か何かのように見える。

 そんな彼には、もう少し誠実に向き合いたいと思ってしまう。


「でも、ずっと夢見心地でいるのは……」

「嫌、なのか?」

「嫌と言うか……私に良くしてくれる皆さんに、失礼なんじゃないかって」


 そう言って、イクスの目を見つめてしまう。

 逸らすことなく、見つめ返してくるイクス。


 ……今、私はどんな表情で見つめているんだろうか。


 感情が綯い交ぜになっているだろうと言うことはわかる。

 ぎゅ、と口が引き結ばれる。


「あの、私――」

「無理に言葉を紡がなくて良い」

「でも」

「一月近く過ごしてきて、少しくらいは君のことを知れたはずだ」

「イクス様……」

「君は真面目で優しい人間だと思う」

「そう、でしょうか?」

「ああ。……それと、少し不器用なところは俺に似ているな」


 イクスが苦笑する。


「も、もうっ」


 思わず、釣られて口元が綻んでしまった。


「君が魔術の実践で壊したうちの物は数知れず……とリーファも驚いていたぞ」

「そ、その節は申し訳ございませんでした……」

「良いんだ。物が壊れれば修復も改善もできると、ミリスが喜んでいるからな」

「それは良いことなんでしょうか……?」

「もちろん。君は我が家の輝きだ」

「そ、それは、その、ありがとうございます……っ」


 ふいっと目を逸したイクスが、直後に向き直る。


「ミリエラ。もし君が今の自分を変えたいと思っていて――俺に何か手伝えることがあるなら、いつでも頼ってほしい」

「……っ」


(だから、その微笑みは卑怯ですっ……)


 声は喉元できゅぅとつっかえたが、頬に滲んだ桃色は隠せなかった。


「わっ、わかりましたっ、そそそ、その時は、その、お願い、しますね?」

「あぁ」

「あ、あ~、それと!」

「なんだ?」


 こほん、と恥ずかしさを消すように咳払い。


「今の私は、ミリィですっ」

「……そうだったな」


 どちらからともなく吹き出す。

 ――幸せ。

 こういう何気ない瞬間を、その積み重ねを、幸せと呼ぶのではないかと、ミリエラは思った。


 その時。

 突然の地鳴りと共に、会場が停電した。

 心臓を直接揺さぶるような振動。

 暗がりに慣れる前のその目には、一瞬前に焼き付いたイクスの笑顔、その幻がまだ残っている。

 内臓を抉るような嗚咽感を伴い、あの感情が目を覚ます。

 そう、

 恐怖だ。

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