第34話 魔獣

 幽閉されていた十三年は、いかに感情を押し殺し逃避できるかと言う日々だった。

 そして、ナイトヴェイル家に来てからは己の中に眠っていたポジティブな感情が目覚めていくだけの日々だった。

 その副作用が訪れた。

 豊かさを取り戻しつつある彼女は、ネガティブ感情への感受性すら復活させていたのだ。


 だがミリエラの体を駆け巡った恐怖の正体を、彼女は掴めない。

 自分の命の危険かと思ったが、即座に否定される。

 今更、死の恐怖にここまで支配されるとは思えなかったからだ。


(これまでも、ずっと死にかけのような日々でしたし……)


 目まぐるしく廻る感情を本能的に遠ざけようとする。

 感覚器官がその活動を停止し、殻にこもっていこうとする。


 そんな彼女の腕が、力強く引っ張られた。


「ミリィ、俺から離れるな」

「…………イクス、様」


 途端に、五感が息を吹き返す。


「この、状況は……?」

「わからない。だが、良くないことは確かだ」


 暗闇に包まれた会場は、まだ状況を誰も理解できていないようでがやがやとしている。

 リーファへ連絡を試みたが、ノイズしか返ってこない。


「リーファさんに繋がりません……」

「俺もだ。恐らく魔術妨害イレクト=ディスターヴが使われた」

「それって、確か……」

「魔術具の起動すら妨害するものだ。人体や環境に影響を及ぼすから、使用許可は基本的に下りないはずだが……」


 暗がりのせいでよく見えないが、イクスの声からは少し焦燥を感じた。


「ひゃっ?!」

「舌、噛むなよ」


 優しい口調でそう言われた後、不意に胴体が浮く。

 またしてもお姫様抱っこをされてしまった。

 しかも今回は魔術を使わず、身体能力だけで壁を蹴りながら宙を移動している。

 その振動に、思わずイクスの体をぎゅっと掴んでしまう。


「デューイ、いるか」

「あぁ。流石は私の騎士だね」

「当然だ」

「ところで、そちらのお嬢さん……」

「ふむ。ミリィ、もう大丈夫だ」

「ひゃい……?」


 恐る恐る目を開けると、いつの間にかデューイが最初に挨拶をしていた壇上の裏手に来ていた。

 バルコニーからはかなり距離があったはずなのに……。

 そこでデューイがイジワルそうな笑みを浮かべてきたので、はっとした。


「すすす、すみませんずっと抱きついていて」

「大丈夫だ」


 イクスから降りる。そこにはデューイ、イクス、ミリエラ、そしてシュミットがいた。

 『絞り込んだ三人』の一人、だ。

 否応なく警戒してしまう。


「デューイ、まずは魔術妨害イレクト=ディスターヴを止める必要がある。妨壁回路アンチ・ディスターヴは持っているな」

「当然」

「では、俺とシュミットさんで護衛する。術者は最低三人いるはずだから――」

「私と君は別行動だ、イクス。君は地上、会場の周辺を探せ」

「俺はお前の護衛だぞ」


 珍しく怒りを滲ませるイクス。


「この状況、狙いがわからない。私たち二人が同時に罠に掛かったりでもしたら、その間に他の人達を誰が守る? 君にしかその任は任せられない」

「……ご命令とあらば」


 不承不承、と言う感じは拭いきれないが、イクスが引き下がる。


「私はシュミットに着いてきてもらう。大丈夫、彼も充分に強いからな」

「この前、いよいよイクス君に模擬戦で負けてしまったけどね」


 シュミットがその疲れ目に苦笑を交えながら言う。


「あれは偶然ですよ、シュミットさん。また胸を貸してください」

「そう言ってもらえるのは光栄だ。……では、イクス君」

「はい」


 二手に分かれようとする直前、デューイが思い出したように声を掛けてきた。


「君、ミリィと言ったよね」


 射抜くようなその碧眼は、僅かでも気を抜けば気圧されてしまう。

 王族の圧はこれほどなのか、とミリエラは身構える。


「イクスをよろしく頼むよ」

「……え、あ、はい」


 ぽかんとした口調で返してしまった返事を聞くと彼はニコリと笑い、次の瞬間にはシュミットと床下の抜け道に入っていった。


「俺たちも行こう」

「はいっ」


 イクスが裏口を蹴り開け、外に出る。


 そこで二人が目にしたのは、異形の集団だった。


 いや、大まかな姿形は狼に似ている。だが、三メートルはあろう体躯は狼にしては膨れ上がりすぎている。

 何より、赤々と輝く瞳が、六つもある。

 非対称に鋭くなりすぎた牙の隙間からは止めどなく涎が落ちていた。


「……魔獣化したのか」


 イクスが歯噛む。


 魔獣化。

 今回は恐らく、魔術妨害イレクト=ディスターヴの副作用だろう。

 強力なこの術は、生態系に悪影響を及ぼし得るため、国際条約で制限を受けているほどだ。


 がしゃん、と背後の遠くからガラスの割れる音が聞こえる。

 次いで、会場から男女の悲鳴が聞こえてくる。


「何あの怪物!」

「あれ、魔獣じゃないか!?」

「そんな、敵が攻めてきたとでも言うのか?!」

「死にたくない!」

「衛兵は何をしている!?」


 パニック状態だ。

 このまま会場の外に散り散りになってしまえば、余計な犠牲者が増えてしまう。


「イクス様!」

「……クソっ」


 いつになく怒りに満ちた声だ。

 しかしすぐに平常心を取り戻し、ミリエラに言う。


「この場で魔獣に対応できる人間は少ない。すまないが、君にも戦ってもらう」

「大丈夫ですっ」


 あれから、ナイトヴェイル家の皆から訓練を受けてきた身だ。

 今この場の人間の中で、彼女の平静さは間違いなく上位に位置するだろう。

 ドレスの裾をたくし上げ、縛ってまとめる。


(私の力が、誰かの役に立てるなら……!)


「こちらは俺が対処する。君は表の方を頼む。すぐに合流できると思うが、危険を感じたら――」

「わかってますよ。すぐに逃げるか、大声でイクス様を呼びます!」


 少しだけ破顔してみせると、イクスも応えてくれた。

 その一瞬のやり取りを終えると、二人は真逆の方向へと飛び出す。

 イクスは黙って裏口から外へ。

 そしてミリエラは、


「皆さん、落ち着いてください! 会場の外には出ないで! 我々が対処します!」


 と大声で呼びかけながら手近な扉へと向かう。


 幸い、まだ魔獣は入ってきていない。

 先程の割れたガラスの音は、投げ飛ばされた衛兵が突き破ってきたもののようだ。

 扉を出て、魔獣を確認する。

 こちら側は数が少ないようで、衛兵たちが応戦できている。


「私も、がんばらなきゃ……!」


 ドレスの内側のポケットから、ビー玉を一つ取り出す。

 ミリスお手製の武器だ。


「や、やられる……っ」


 衛兵の声がする。

 その方を見ると、魔獣の爪を剣で抑え込んでいるが、限界のようだった。


「衛兵さん、今助けますっ!」


 ビー玉を振りかぶり、投げつける瞬間に魔術を起動する。そして蒼く発光する目。


起動イレクト――加速アクセル! えいっ!」


 ビー玉が恐ろしい速度で魔獣の胴体へ向かい、めり込んでいくと同時にビー玉が弾ける。


 そして、魔獣を一瞬で粉砕した。

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