#44 湖畔のリアルマーメイド
湖には、ビーチが何か所もある。そこで彼らは、元々向かうつもりだった水泳場はやめて、唐突に別の駅で降りることにした。
「あの男の追跡を、これでなんとしてでも振り切る」
鈴木部長が、力強く宣言する。
駅舎もない、小さな駅のホームに降り立つと、青々とした田んぼの向こうに広がる湖面から、爽やかな風が吹いてきた。海ではないから潮の香りはしないが、塩分がないおかげでべたつくこともない。今日も最高気温は30度を軽く超えているのだが、この場所に限ってはもっと涼しいはずだ。
明るい夏空の下には似合わない気もする、アルゴリズムやビット演算などのマニアックな話をしながら、南北パソコン部の一行は湖のビーチにたどり着いた。
水泳場は割と小規模な感じで、「湖の家」もたったの一軒だけだ。それでも、ちゃんと割高なカレーや焼きそばが食べられるし、よしずで囲った更衣室やロッカールームも使えるしで、そこは何の文句もない。見渡したところ、来ている客は少なめで、そこはマイナーな水泳場のメリットと言っても良かった。
さっそく男女に分かれて着替えを行う。
海パンを買い替えると言っていた一関くんは、オールスター水泳大会に出てくる男性アイドルのような、黒いブーメランパンツを用意してきていた。
「いやあ、ニチイのバーゲンでこれが半額処分だったので、つい」
と一関くんは頭をかいたが、おそらくは誰も買わずに売れ残っていたのだろう。幸い、彼の場合は元々のルックスが良いから、まあまあ似合っている。
「ええなあ、格好ええやん」
とうらやましがる横山くんは、「横山」という名前の入った紺色の海パンだ。中学時代から愛用している品らしい。ぶよぶよとした彼のおなかには、引き締まった競泳用の海パンよりもむしろ似合っているかもしれない。
「お前、今年もまたそれか」
と鈴木部長は呆れていて、去年の夏もその格好で参加したらしかった。
着替えを終えた男性陣が、湖の家の前でたむろしていると、女子更衣室の魅惑のよしずの向こうから、白い水着に着替えた実紅ちゃんが姿を現した。その瞬間、男性陣の間に静かな動揺が走る。普段の地味な制服姿からはうかがい知ることのできなかった彼女の大人っぽいスタイルが、まさに白日の下に明らかにされたのだった。
なるほど、城崎元副部長はある意味でさすがなのだった。まるで透視能力を持っているかのように、彼女の服の上からでも、隠されたその姿をちゃんと見抜いていたのだ。
「なかなか似合っていますね。やっぱりニチイで?」
と訊ねた一関くん以外は、みんなそ知らぬふりをして、彼女の優れたスタイルについては一切触れなかった。紳士的というよりも、気後れしてしまって何も言えなかったのだ。
山岡先輩に至っては、必死で実紅ちゃんから目をそらしていて、痛々しいほどだ。この人は二次元イラスト専門のはずなのだが、目の前に姿を現したリアル女神的な存在の魅力には、逆らうのが大変なようだ。
もしもその場に城崎さんがいたら、倫理的に問題のある発言をダイレクトに連発していたはずで、やはり見捨ててきて正解だったのだ。
「うん、ニチイ祭で安かったから。でも、もっと黒っぽいのにしたほうが良かったかな。白って膨張色だし、太って見えちゃってるかも……」
と気にしている様子の彼女に、
「全く大丈夫、一切問題なし」
その場の男性陣みんなが、声に出さずに即答していた。
南高校パソコン部による昨年の「湖水浴」も、参加者が全員男子とはいえ、なかなか楽しく盛り上がったという。みんなで夏のビーチに遊びに来れば、はしゃぎたくなる気分になるのは当たり前のことだろう。城崎副部長だけは制服のまま、一人でパラソルの下でポケットコンピュータを操作していたらしいが、それでも見知らぬ水着姿の女性を双眼鏡で観察したりと、ビーチを独自にエンジョイしていたそうだ。
今年はそこに、女子部員の参加という夢のようなプラス要素が付け加わっている。冷たい湖水をかけあってふざけても、ビーチボールを投げ合っても、その輪の中に実紅ちゃんの姿があるだけで、楽しさは前年比で256倍にも及ぶのだ。
お昼の時間になり、みんなで水泳着のまま「湖の家」の座敷に上がって、麺類やカレーなどを頼んだ。屋根代わりのよしずの日陰で、ぼろいテーブルを囲んで食べるお昼もまた楽しい。
その中心で、
「肉は少しも入っていないけど案外おいしいですね、この焼きそば」
と、控えめにほほ笑む実紅ちゃんは、南北パソコン部員たちにとってまさにリアルマーメイドなのだった。
(#45「鈴木部長のアドバイス、途に倒れる城崎前副部長」に続く)
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