(後略)

 無価値なものを集めることが趣味の知り合いがいて、そいつからタダ同然でかっぱらってきた手帳があった。


 水色の合皮製で、ベタついたビニールでカバーされた1998年製のものだ。

 手帳なので、表紙にタイトル欄なんてものはないのだが、赤いマジックで無理やり、『闇に屁を放る』と殴り書かれている。


 中身を読むまでもなく、そのインパクトで気に入った。

 そして中身を開けて二度驚いた。

 

 手帳の主目的であるカレンダー欄にはなんら予定が書かれておらず、その続きに15頁ばかり容易されたメモ帳部にのみ、雑然としたペン字で、屁と光と闇についての記述がなされているのだ。


 じゃあメモ帳でいいのに、と思わずにはいられない。


 カレンダーを埋める予定が何もないヤツ、あるいは予定があっても書きもしないヤツが、今年は真面目に取り組もうと意気込んで手帳を買ってみたが、やっぱりロクに使わなかった、というビジョンが浮かんでくる。


 だがそいつなりに考えることはあったのだろう。

 

 『闇に屁を放る』と題された一連のミミズ文字には、いかにも日陰者らしい暗所への崇拝、大袈裟で大仰な語り口、屁と死というテーマを消化というプロセスから繋ぎ合わせる率直なモチーフがある。


 そして何より、それら思考を羞恥せず表現せんとする、芸術にむかう衝動があるではないか。


 その意気が、最終的に表紙へと溢れ出たのだろう。私は表紙の殴り書きから、脳髄へと導かれる電荷のようなものを感じたのだ。


『きみ』という対手に語りかける文章の性質もあるのだろう。私は20年以上前の手帳からメッセージを受信した心持ちになり、『まず、闇に屁を放ってみなさい』との文が頭から離れずにいた。

 

 プスーッ


 自室にて、屁をこく。

 自らの鼻で、腸内細菌がレトルト漬けの日々に鳴らす警鐘を嗅ぐ。

 闇――。

 闇を用意せねば。多量の容器包装プラスチックが山積したちゃぶ台に這い上がり、私に向かって垂れ下がるヒモを引く。

 

 パチン、

 電気消灯。

 置いてきた屁にダイブして、背から畳に寝転がる。


 屁が臭い。

 おそろしく臭い。

 食物繊維とビタミンを摂らない食事が、いかに死に直結しているかがよく分かる。

 

 これが、死の臭いか。


 手帳を残した彼(『彼女』の線は考えたくない)もまた、独居している部屋かどこかで、この屁死臭を嗅いだのだろう。


 私と彼、二十年および不分明なる距離で断絶された時空間が、屁という不変の生理現象で繋がっている。

 この気持ちをありのまま表すのなら、それは何かとても、奇跡に思えた。

 

 チ、チ、チ……

 

 聞き覚えのない鳥が、窓の近くで鳴いている。

 止まり木にした電線の近傍に、な死臭に満ちた空間があることなど知らずにいるのだ。


 チチチチチチ


 はは、愛らしい。

 

 ヂッ……ヂヂヂヂッ 

 バツン

 

 しかしどうにも、景気よく鳴くものだ。

 窓が明るい。

 もう、夜明けなのだろうか。

 そろそろブラインドを閉じなければ……


 ――爆炎が咲いた。

 外の電柱が倒れ、引き千切れた高圧電線がショートし、闇に放られた屁に着火した。

 夜更けの炎は、窓際に積まれた可燃ごみ袋を種に膨れ上がり、衝撃に吹き飛ばされた私は、近隣の通報により命からがら病院に搬送された。

 

 いったいなぜ、窓の向かいに立っていた電柱が突然倒れたのか。それはどうにも見当がつかぬようで、私には屁の死臭が招いた災いとしか思えない。


 その証拠に、ブラインドの巻き上がった窓の向こうで、私は確かに見たのだ。


 電柱にしがみつきながら、首だけをこちらに向けて笑う、尻の黒い少女の姿を。


 夢の中で、私はあれを、屁死神へしがみと呼んだ。

 もう、私は闇に屁を放らない。

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闇に屁を放る 羽暮/はぐれ @tonnura123

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