恋のはじまり

 入学式が終わり、それぞれの教室に入る。目にするのは入試の時以来の教室の風景に、あたしは心が躍るのを抑えきれずにいた。あたしの前の席には一平、斜め前の席には月希子が座る。


 「改めまして、ほたる、合格おめでとう!」


 「本当、よく受かったよね。マグレってすごいな」


 「いぺ兄ひどいー! あたしだってやればできるもん」


 そんなことを言い合っていると、不意に教室のドアがガラッと音を立てて開いた。


 「皆さん、席について下さい。ホームルームを始めますよ」


 教室に入ってきたのは、若い女性の先生だった。チョークを手に取ると、綺麗な字で黒板に名前を書き始める。


 「このクラスの担任、黒門くろかどりつです。一年間よろしくお願いします」


 そういうと先生は教科書を取り出す。


 「ではさっそく、教科書6ページを開いてください」


 (えっ!? いきなり授業!? あたし、何も持ってきてないよー!)


 あたしの戸惑いに気づくはずもなく、先生は授業を進める。周りの生徒たちも、月希子も一平も、当然のように教科書を開き、真剣に話を聴いている。


 「この数式を因数分解して……すると……これが答えで……」


 (やばい……何言ってるのか全然わかんない……)


 焦りと絶望が頭を埋め尽くす。黒板の数式が歪んで見え、何もわからないまま時間ばかりが過ぎてゆく。




 「……さん、……神崎さん!」


 気づいた時にはもう授業は終わっていたらしい。一平がこちらを振り返り、プリントの束をあたしに手渡そうとしている。


 「大丈夫? ぼーっとしてたけど」


 どうやら心配してくれているらしい。


 「体調悪いの? 保健室行く?」


 月希子も心配そうにあたしの顔を覗き込む。あたしは何とか口角を上げて大丈夫であることを伝える。そこで気づいた。そうか、二人にとってはあれが当たり前なんだ。一人だけ取り残されたみたいで寂しくなる。いつもそうだ。二人ともあたしを置いて先に行ってしまう。


 「神崎さん、さっきの授業分からなかっただろ? よかったら僕が教えてあげようか」


 一平が問いかける。気づいてくれたんだ、と少し嬉しくなる。


 「わ、それいいー! いぺ兄すごく勉強教えるの上手いんだよ。じゃ、私先に帰ってるから。ごゆっくり」


 月希子が目を輝かせたと思うと、そそくさと教室を出て行ってしまった。残されたあたしはちらりと一平のほうを見る。一平は慣れた手つきで教科書とノートを開き、あたしのほうに向けた。


 「神崎さん、まず中学で習った因数分解は知ってるだろ? まずそれをやってみようか」


 「ええと、こう?」


 「そうそう、正解。次はこの公式を使って……」


 それからはあっという間だった。月希子の言う通り、一平の教え方はとても分かりやすく、こんなあたしでも魔法のように理解できた。


 「すごい! あたしでもできた!」


 「神崎さん、やればできるんだから。これからも分からなければ僕に聞いてよ、教えるから」


 そう微笑んだ一平が急にかっこよく見えて、なんだかドキッとした。


 (いや、ないない! いぺ兄だよ? お兄ちゃんみたいなものだよ?)


 そう頭では考えつつも、あたしは胸の高鳴りを抑えきれずにいた。ふと窓の外に目をやると、夕焼け空が広がっていた。


 「神崎さん、もう遅いし送っていこうか。女子一人じゃ危ないだろ」


 「あ、ありがと……」


 赤くなった頬を見られたくなくてそっぽを向く。一平と二人きりで帰るなんて考えてみれば初めてだ。とたんに心臓が早鐘を打つ。


 (どうしよう……顔見られないよ……)


 あたしは熱くなった頬を冷ますように、一平の後について歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る