リーチ

横館ななめ

リーチ

 和樹が自分の部屋で生物の問題集を解いていると、いきなりドアを開けて部屋に入ってきた姉の莉生が、何の前置きもなく要件を切り出した。

「和樹、モバイルバッテリー貸してくれない?明日、サークルのキャンプだから」

「部屋に入って来る時は、ノックしろっていつも言ってるだろ」

「はいはい、次からは気を付けるから、モバイルバッテリー、モバイルバッテリー」

 素直に次回からの改善を口にした莉生だったが、突然部屋に入って来るのも、和樹のクレームを適当にあしらうのも毎回のことだった。

「自分のやつがあるだろ?」

「この間、裕美の部屋にお泊りしたときに忘れてきちゃった」

 悪びれる様子もなく莉生が手を出すと、和樹は諦めたように、机の横に掛けてあったリュックサックから自分のモバイルバッテリーを取り出した。

 小島莉生と和樹は、大学二年と高校二年の三歳違いの姉弟だ。

 一姫二太郎という言葉があるように、兄弟、兄妹、姉妹、姉弟というきょうだいの4パターンの中で、姉弟は一番平和的に姉優位で上下関係が決定される傾向があるが、小島姉弟もその例外ではない。いや、正しくは、小島姉弟に関しては特にその傾向が顕著だ。

 莉生は小さい頃から活発で、小学校の時は少年野球チームに所属しエースで四番を張っていた。中学生で野球は引退したが、その後も様々なスポーツにチャレンジして、その全てで優秀な能力を発揮し、高校生になってからはチアリーディングに専念。主将として全国大会にまで出場し、現在通っている私立大学にもスポーツ推薦で入学した。

 一方の和樹は、小さい頃から身体より頭を使う方が得意というか性に合っている子供だった。莉生と同じ少年野球チームでは、選手としてはさっぱりだったが、左ピッチャーの牽制の癖を見抜く能力の高さから、一塁ベースコーチとして活躍。受験して入学した中高一貫の都立高校では、化学部に所属しながら、西多摩地区の唯一にして最強のテニス部スコアラーとして、色んな意味でその名を轟かせている。

 キャプテンシーの塊で常に花形のフィールドプレーヤーの莉生と、優秀なプロ裏方の和樹、二人の関係が通常より色濃く姉優位で設定されるのは、必然だった。

「はい、これでいいだろ。勉強してるんだから、出て行けよ」

 モバイルバッテリーを手渡すと、厄介払いが完了したことを宣言するように、和樹は机に向き直った。

「あんたさ、」

 ところが、望みの物を手に入れても、莉生は一向に部屋から出て行こうとしなかった。それどころか、居直り強盗もさながらに、ベッドの端に腰を下ろして和樹に向かって話し始めた。

「そんな勉強ばっかりしてて、楽しいの?」

「勉強ばっかりじゃない。部活もしてるし、友達とカラオケも行ってる。し、勉強は面白い。いや、違うか。勉強が面白いというよりも、勉強することで、自分の中に知識が蓄積してされていくのが楽しい。って、そんな事どうでもいいから、早く出て行けよ」

「まあまあ、そう言わず。姉一人弟一人なんだから」

「親一人子一人みたいに言うな」

 こういう息の合ったやり取りは、さすが姉弟だ。

「で、何それ?げ、生物!?苦痛な教科の定番上位じゃない。私、苦手だったんだよね。って言うか、生物の高橋が苦手だった」

「生物を勉強することが苦痛だとも俺は思わない。それどころか、テーマが身近な分、とっつきが良い方だって思う。俺からすると、古典の方がよっぽどつまらない。ただ、たしかに先生の影響はあるかも知れない。古典の山本は全然だけど、生物の近田、女子からはチッキーって呼ばれてるんだけど、の授業は分かりやすいから。たまに授業から話が脱線するけど、その話もすごく面白いし、」

 そこで、小さく和樹が噴き出した。

「え、何?どうしたの?」

「いや、それこそ、この間の生物の授業の時の、テナガザルのミステリーの話を思い出した」

「テナガザルのミステリーぃ!?それ、どんな話?」

 気が付けば、お互い身を乗り出し、会話に熱中していた。

 なんだかんだ言って、仲が良い。

「ある動物園に、一頭のメスのシロテナガザルがいたんだ。で、その動物園には他にフクロテナガザル二頭とアジルテナガザル一頭、合計三頭のオスのテナガザルが飼育されていた。四頭は同じ檻で暮らしてたんだけど、シロテナガザルだけは、入園者に展示される時間帯が他の三頭と違ってたし、バックヤードにある寝室も別で、寝室は壁で仕切られてた」

「なんで?種類違いって言っても、同じテナガザルなんでしょ。一緒にしてあげたら良いじゃない」

「それには理由があって。シロテナガザルは絶滅危惧種なんだ。だから、血統管理を徹底する必要があって、別種のオスと交わることがないようにしてたんだ。ところが、」

「ところが?」

「ところが、ある日、寝室に入った職員が、シロテナガザルが赤ちゃんサルを抱いてるのを発見した。出産してたんだ。そんなことあるわけないって思ってたから、職員は妊娠してることにも気付いてなかった。パニックになってる職員を想像したら笑えるよね。

 まあ、とにかく、そこから誰が父親なのかって、園を挙げて大騒ぎ。赤ちゃんサルの毛の色とか、顔の特徴とかから、あいつが父親なんじゃないかとか、いやこいつなんじゃないかって喧々諤々の議論のあげく、ついにはなんとDNA鑑定までしたって話」

「そっち?私は、どの猿が父親かなんて話よりも、どうやってシロテナガザルのメスが妊娠したのかって方がよっぽど気になるけどね」

「ああ、それね」

 和樹は、さりげなく莉生の疑問を受けた。だけど、その対応には、その質問が出てくるだろうと、予め想定していた感がにじみ出ていた。実は、和樹は自分なりにエピソードの流れを計算して、その方向に莉生を誘導していたのだ。

 こういうところを見ると、姉上位というよりも、弟が姉を手のひらの上に載せているという構図も浮かび上がってくる。ただ、それもまた、花形のフィールドプレーヤーと優秀なプロ裏方の典型的な関係だと言えるのかもしれない。

 もちろん、和樹はそんな事をおくびにも出さずに続けた。

「さっきも言ったけど、それぞれの寝室は壁で仕切られていた。壁には通り抜けられるような隙間もなかった。あったのは、通気用のパンチホールだけ。でも、壁は厚くって、そのパンチホールを通じて、交配したって言うのは考えにくいって言うのが、動物側の見解。

 結局、今でも真相はやぶの中なんだけど、まあ、シャーロックホームズの言葉を借りれば、『全ての不可能を除外して最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる』ってことで、そのパンチホールが文字通り抜け穴だったんだろうって、俺は考えてるけどね。

 どう、面白くない?」

 自らのエピソードトークを思い通りの形でやり遂げた和樹は、満足げな笑みを浮かべて姉に語り掛けた。だが、和樹の意に反して、莉生の表情はさえなかった。

「面白く・・・、なかった?」

「そう言うわけじゃ、ないんだけどさ・・・。シロテナガザルとかフクロテナガザルとか、アジル?テナガザルとか、あんま良く知らない動物が、バックヤードとかいう良く分からない場所で、パンチホールなんて初めて聞いたアイテムを利用したっていう話を聞かされても、イメージが湧かないって言うか、話が頭に入ってこないって言うか・・・、」

「やっぱ、そこかぁ・・・!!」

 和樹が絶句したのには訳があった。

 実はその一週間ほど前に、試合を控えたテニス部のミーティングで、対戦相手の分析結果を選手たちに伝えたのだが、専門用語が多くて独りよがりだと、みんなからクレームを受け、その心の傷がまだ癒えていなかったのだ。

「いや、でも、十分に面白かったよ。なんか、たしかにミステリーぽかったし」

 和樹の急激な落ち込みに、莉生は慌てて、お姉ちゃんフォローモードに切り替わった。

「嘘だよ。だって、全然、話が頭に入ってこなかったって言っただろ」

 莉生のお姉ちゃんモードがオンになったことで、それに連動する形で、和樹の弟甘えん坊モードも起動していた。

「たしかに細かいところまでは分からなかったけど、話のポイントくらいは、ちゃんと分かった。と、思う」

「じゃあ、言ってみろよ」

 和樹に迫られ、莉生は焦った。だが、そういう追い込まれた場面でこそ能力が発揮できるのが、花形のフィールドプレーヤーの花形たる所以なのだ。

 このときも、全くノーアイデアの状態で返したボールを痛烈に打ち返された莉生であったが、その瞬間、思考がフル回転し、そして、和樹のエピソードの核心を見事につかみ取った。まさに秒の攻防だった。

 そして反射的に、莉生は答えた。

「つまり、その、あれでしょ。テナガザルの長いのは、手だけじゃないってことでしょ?」

 一瞬の沈黙の後、弟姉の言葉が交錯した。

「・・・え?」

「え?」

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