スグルくんのこと

青木雅

スグル君のこと

 ことの発端は支所の裏あたりの家で、そこはわたしの家の分家でした。

 分家はさして豊かな家ではありませんでしたが、うつくしい洋犬が一匹いました。四肢がすらっと長く白くて光沢のある毛並みと細長く気品のある顔をしていた、という話ですからボルゾイか何かでしょう。その頃はわたしのおばあさんがまだ小学生だったとかでせいぜい昭和四十年代でしたから、こんな犬はまだ日本にはほとんどいなかったと思います。都会での出稼ぎから帰った者の縁から子犬を貰ったという話ですが、遮るものの無い田んぼばかりの風景ではさぞかしその姿が際立って見えたことと思います。

 その頃、この家に突然すこぶる頭のいい子どもが生まれたそうで、家の者は中学の成績を見て目を丸くしていたと聞きました。我が家も大概ですが、三校と呼ばれる、市内にある高校のうちいわゆる進学校の三つに受かるような子どもがいたことなどまるでなかったのです。みな畑かあるいは工場やスーパー、よくて役場で働いてそこで結婚相手を見つけていたのですから当然と言えば当然でしょう。

 その子はスグル君と言ったそうです。背も高ければ顔立ちも整っていて運動にも長けたらしく、家族の誰にも似つかないために腹違いまたは種違いを噂されたこともあったようですが真相はわかりません。とにかく村はじまって以来だったことだろうと祖母は言っていました。

 分家はその才能を持て余さないようありったけをつぎ込んで、結果スグル君は三校でもいちばん優れた■■高校へ抜きんでた成績で入り東京の大学の医学部にも一発合格を果たしたのだそうです。けれども医学部の莫大な学費を払えるはずもなく、両親は泣く泣く本家である我が家や他にも村議会議員に頼み込んでいつかスグル君の稼ぎで村に還元するからとどうにかかき集めたのでした。

 数年後、スグル君は末期の梅毒でまともに話せないような状態で村に帰ってきました。勉強ばかりでまともに遊んでこなかったばかりに都会に渦巻く欲望の熱にあてられてしまったのでしょう、家の者たちは頭を抱えたに違いありません。しばらくは介護をしていたようですが、結局金を返す目途も立ちませんから一家でどこかへ出て行ったきり連絡は途絶えたそうです。大学での友人などから連絡が入るといったこともなく、ただ一度だけ、生後半年にも満たない赤ちゃんを抱えた若い女が訪ねてきて、教育費の無心をしてきたそうですが金がないと答えると唖然としてすぐにどこかへ帰ってしまったきりだとか。

 祖母は昨年、大腸がんで亡くなりました。晩年もがんが進行しきらないうちは盛んにあれこれ話をしたがるのでわたしが話し相手になってそれを聞きました。まるで自分の中のすべてを託したがっているようでしたが、話すことは役に立つ教訓といったものではなく些細な思い出ばかりでした。この話もその中の一つで何度も繰り返し聞かされました。

 印象に残っているのは、例の洋犬をスグル君が散歩しているのを見た時の話です。明け方の白けた光に満たされた、青い稲のいちめんに風に揺れる朝のこと、中学生のスグル君がもうすっかり老犬になった洋犬のゆっくりとした歩みに合わせて歩いているのを見かけたそうで、その様がまるで親子のような慈しみに満ちたものであったのだと語ります。犬がスグル君にもたれかかるようにして甘えれば優しく撫でて、少しよろけるとすごく心配した表情で何か声をかけていたのだとか。祖母曰くそんな様子がいつ思い出してもあまりに神秘的で、もし東京のどこかにあの人の子どもが今も生きているのならば、ぜひ会ってみたいものだと言っていました。今でもその家は空き家としてそこにあり、老朽化のため今年中に取り壊すそうです。

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スグルくんのこと 青木雅 @marchillect

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