拳拳服膺
三鹿ショート
拳拳服膺
私と恋人の仲を応援していた親友が、私の恋人と愛し合っているという光景を目にしたとき、他者を信頼してはならないということを、私は学んだ。
愛していた人間に裏切られたときの気持ちを二度と味わうことがないようにするためには、他者に心を許してはならないのである。
ゆえに、私は信頼などといった言葉が如何に馬鹿馬鹿しいものであるかを、心に刻み込んだ。
それ以来、私は友人から離れ、恋人を作ることを止めたものの、やがて孤独感に悩まされるようになってしまった。
それは他者と触れ合うことで解消されるのだろうが、全ての人間を遠ざけるために攻撃的な言動をしていた私が、今さら誰かに甘えることなど、出来るわけがない。
だからこそ、私は彼女と関係を持つようになった。
彼女は、私と過ごした時間の中で起きた出来事について、口外することはないからだ。
私が他者を信頼することを止めたということと矛盾しているだろうが、それには理由が存在している。
彼女は、今日の記憶を明日に持ち越すことができないのである。
いわく、数年前の事故でそのような状態と化したらしい。
その事故以前の記憶は残っているものの、事故以降の記憶を維持することができないために、誰もが彼女に同情していたが、私だけは喜んでいた。
彼女ならば、私がどれほどの痴態を晒そうとも、翌日には全てを忘れてくれる。
つまり、どのような行為に及んだとしても、私にとっての不利益が生ずることは無くなるのである。
悩む彼女を利用することに少しばかりの罪悪感を抱いているものの、それは無駄な行為だといえるだろう。
彼女は、全てを忘れてしまうのだから。
***
かつて彼女は、自分が忘れてしまうとはいえ起きた出来事を無かったことにしてはならないと考えたのか、毎日の出来事を細かく記録していた。
大量の筆記帳を目にしたとき、私は彼女の努力に感心したが、その夜には全てを燃やした。
私のことを記録されては、困るからだ。
彼女の努力の結晶である筆記帳を全て燃やすという私の行為が残酷だと責める人間も存在するだろうが、見方を変えれば、これは彼女のためでもあるのだ。
例えば、普通の人間ならば忘れることができないほどの幸福な出来事が筆記帳に記録されていた場合、彼女がその内容を目にしてしまうと、それほどの出来事までも忘れてしまう己の無力さに打ちひしがれることだろう。
その感情も、翌日には姿を消すだろうが、それでも彼女が悲しむ顔を見せることがなくなると思えば、私の行動は一概に責められるようなものではないのである。
ゆえに、私は自分が間違った行動をしているとは考えていない。
***
常のように、彼女の自宅の呼び鈴を鳴らしたが、彼女が姿を見せることはなかった。
彼女から鍵を貰っていたために、それを使って中へと入ったところ、居間の中央に倒れている彼女を発見した。
彼女の身体を揺らしながら、何が起こったのかと問うたが、反応は無い。
床に転がっている薬瓶と、嘔吐した形跡から察するに、彼女は自らの意志でこの世を去ったということなのだろう。
だが、その理由は不明だった。
記憶を失うことになった理由が記載された筆記帳は既に処分しているために、彼女はそのことも忘れ、新しい自分として、毎日を過ごしていたはずだ。
悩むようなことは、何も無かったはずなのである。
しかし、机上に残されていた一枚の紙から、私は理解した。
其処には、全てを思い出したという一文が書かれていたのである。
彼女の抱えていた問題が突然解決するなど、想像もしていなかったことだが、可能性が皆無だというわけでもない。
ゆえに、彼女は、これまで私から受けていた、他者に明かすこともできないような恥辱の数々を思い出したということになる。
自死を選んだとしても、不思議ではなかった。
だが、私が彼女に対して謝罪することはない。
そのようなことをするくらいならば、最初から彼女を利用することはなかったからだ。
私は彼女のことを、自身の欲望を満たすための道具としてしか見ていなかったのである。
思うことが存在しているとするのならば、これまでの彼女と同じような行為に及ぶことができる人間を探すことは不可能に近いということを、残念と感ずることくらいだった。
しかし、私は其処で、あることを考えた。
彼女と同じような状況で事故に遭えば、同じような人間を作ることができるのではないかということである。
私は動くことがなくなった彼女の肉体を床に転がすと、早速とばかりに彼女の事故の状況について調べ始めた。
拳拳服膺 三鹿ショート @mijikashort
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