第1章 白銀の乙女編

第1話 転生

「終わったぁ」


 椅子に体を預け伸びをする。

 時間は朝5時半。

 会社のあるビルの隣にあるツインタワーの間から朝日が昇ってくるのが見える。

 この光景もおなじみのものになっていた。


 誰もが良く知る大手の会社に入って、両親は喜んでくれたけど、実はとんでもなくブラックだった。サービス残業当たり前で、労働基準法何それ?って会社だった。入社3年目でプロジェクトを一つ任されたのはいいけれど、ここ半年、平均睡眠時間3時間でやってきた。倒れて救急車で運ばれたこともあったけど、労務管理の人には冷たく言われた。


「体調管理も仕事のうちですよ」


 いや、仕事減らしてくれないのに自己責任とか言われても困るよね。


 しかも今回のプロジェクトのクライアントは急な仕様の変更、新たな要求の追加、そんなのばっかりだ。今回も納期1週間前の仕様変更で無茶苦茶だった。この1週間、2時間以上寝た日は無い。今日に至っては完徹3日目だ。


 でも、取り合えず出来上がった。午前中に社内のメンバーと最後の打ち合わせをして、午後一でクライアント先でプレゼン。今5時半だから始業時間まで2時間半くらいは仮眠できるか。そう思って、椅子に体を預けた時だった。


 心臓を鷲掴みされるような激痛。息が出来ない。あえぎながら伸ばした手は空を切った。そのまま、椅子から床に崩れ落ちる。ああ、これはまずい。救急車を呼ばなきゃ……救急車を……誰か……。そのまま、意識は闇に飲まれた……。






 夢を見た。暗闇の中、光が差す。黄金の光が。何だろう、懐かしくて、暖かい光。その光に包まれた時、急速に意識が戻ってきた。


 あれ、何かおかしい。

 目が見えない?

 何となく明るいってのはわかるけどはっきりとは見えない。

 手足を動かそうとしてもうまく動かせない。


 フッと視界が暗くなる。

 誰かが覗き込んでいるようだ。


「×××××××××」


 女の人の声で何か言っているようだけど何を言っているのかわからない。


 まずい。過労で脳の機能に何か障害が出たんだろうか。

 このまま、目も見えず、体も動かせないままだったらどうしようという恐怖が襲ってきて思わず声を上げようとした。


「ホギャア、ホギャア、ホギャア」


 ……何だこれ?


 突然、体が持ち上げられる感触。え、身体に当たっているのは手? まさか、こんな大きな手があるのか? いや、ぼけている場合か。信じられないが、俺の方が小さくなっているのか?


 まさか俺、赤ちゃんに戻ってしまっている?

 時間を遡ったのか?

 そんなバカな……。

 悪い夢でも見てるんじゃないか、と思う間もなく、今度は何かが口に突っ込まれた。

 いったい何?と思ったが、身体の反応か、何かをコクコクと飲み始めた。


 えっ? これって、まさかおっぱい飲まされてる?


 ちょっと待って! ちょっと待って!

 赤ちゃんに戻ったってことは、俺、今、母さんのおっぱい口に含んでるってこと?

 オゲェエエエ! それは精神的にきつすぎるだろ!


 ……それなのに、赤子になったらしい体は上手く動かせない。

 いつまでもコクコクと飲み続けている。

 ……なんだろう、この感じ。

 人として何か大切なものを失ったような気分だった……。






 それから少し月日が流れた。

 一月だろうか、二月だろうか。

 日がな寝ているから日の進みがよくわからない。

 ようやく目が見えるようになってきて、手足も少し動かせるようになってきた。

 おっぱいを飲まされるのも、おしめを替えられるのも、もう慣れた。

 最初こそ、人の尊厳がーとか悩んでいたが、もうどうにでもなれ、である。


 さて、目が見えるようになってわかったのは、単に赤ちゃんに戻ったのではないということだ。

 だって目の前にいる母親と思しき女性、元の俺の母親と全然違うもん。

 元の俺の母親は金髪じゃなかった。目の前の女性は金髪。

 いや、ヤンキーってことじゃなくて、地毛が金髪なんだ。

 つまり外国人。しかもかなりの美人だ。それも若い。まだ10代なんじゃないかと思うほど。もっとも、そんな美人のおっぱい飲まされても、赤ちゃんの身体のためか、欲情とか、全くしないけどな。過去の自分の母親じゃなくて、精神的にはホッとしたが。


 さて、周りを見回すと、文明の程度はだいぶ遅れている。

 電子機器は当然のこと、家電製品のようなものも見当たらない。水道らしきものも無いらしく、水はどこからか桶で汲んできて貯めているようだ。

 俺も詳しいわけでは無いが、中世、いや近世くらいの文明レベルだろうか。

 だとすると、過去の世界に転生してしまったということなのか?


 そうした疑問はある日氷解することとなる。


 その日、俺が寝ているベビーベッドに母さんがやって来て、俺を抱き上げた。


「ラキウス、今日はお月様がきれいだから、ちょっとお外を見てみましょうか」


 ラキウスというのはどうやら俺の名前らしい。

 ちなみに母さんの名前はマリア。もちろん、聖母様とは全く関係ない。

 最初のころはこちらの言葉なんかさっぱりわからなかったけど、赤ん坊の学習能力がすごいのか、すぐに言葉は理解できるようになった。

 まあ文字はまだ一文字も読めないんだけどね。寝てるだけだから仕方ないよね。


「ほうら、お月様がきれいでしょ」


 母さんが俺を窓際に連れて行って話しかけてきたけど、俺は思いもしなかった光景に固まっていた。


 ……月が二つある。


 もはや疑う余地は無い。

 ここは地球では無い。異世界だ。

 俺は異世界に転生してしまったのだ……。

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