陽春
「山下さん、お昼行きましょうよ」
おっと、もうそんな時間だったのか。エクセルの細かい数字とにらめっこするようにして集中していると、若林くんから声を掛けられた。時計を見ると、十三時を少し回ったところだった。
もうちょいかかります? という声に大丈夫だよと返事して、手早くショートカットでファイル保存しPCをロックする。財布とスマホを片手に後に続いた。
「流石にもうあったかいですね、桜も咲いてますし」
会社のビルを出ると気持ちの良い気候だった。少し前までは薄いジャケットでもほしいところだったのだが、あっという間に春めいてきた。ずっと蛍光灯の灯る室内にいたので、公園のけやきの葉の緑とか、アスファルトの黒褐色の中に映えるオレンジのラインとか、日差しに照らされている風景がやけにキラキラして見える。
「何食べる?」
「ラーメンでも良いですか? 最近『えびす家』行ってなくて」
「おっけー」
会社の近辺には昼食にむいた店がそこそこあって、その日の気分で行く店を変える。『えびす家』というのは、幾つかあるラーメン屋の一つで、いわゆる家系のラーメンを出す店だ。
五分ほど歩いて角を曲がる。
「あれ? 並んでないですね」
この少し先にお店がある。そろそろ並んでるお客さんが見えそうなものだが、珍しいことに一人も並んでいなかった。けっこう人気のお店なので、お昼のピーク時を少しずらして来たとはいえ、多少は並ぶ覚悟をしていたのだけど。
近付いて見ると、どうも様子がおかしい。店の前に待ち客がいないだけではなく、店内の明かりも消えていて営業している雰囲気ではなかった。
「休みかな?」
オフィス街だけに平日は定休日じゃなかったはずなのだけど。そんな風に話しなから店の前に辿り着くと、扉に貼り紙があった。
「山下さん、これ」
「あらら」
『本日は息子の入学式のため休みます 店主』
コピー紙にサインペンで書かれた無骨な文字が臨時の休みを伝えていた。なるほど、入学式と来たか。それは子供を持つ親にとっては一大事だ。えびす家のガッツリしたラーメンを味わう口になっていたけど、それなら仕方ない。
残念だけど開いていないのならと若林くんに声をかけようとすると、後ろから若い男性たちの声がした。
「え? 休み?」
「子どもの入学式とかありえんわ。そんなんで店休むなよ」
「ホントホント」
私達の後から来た客のようで、その若い男性達は貼り紙に悪態をつきながら引き返して行った。
胸の奥からモヤモヤとした気持ちが湧き上がってきた。なんて言い草だろうか。ラーメン屋の店主にも勿論家族があるのだし、店を休むということはその日の売上を放棄するということだ。そこには店主として、父親としての葛藤があったに違いあるまい。
いや、おっさん臭い考えか? 最近の若いヤツだとそんなものなんだろうか?
若林くんを見ると、彼はまだじっと貼り紙を見つめていた。
「山下さん」
「ん?」
貼り紙を指さしながらくるりとふり返った若林くんは――笑顔だった。
「『息子の』ってわざわざ書かなくても良くないっすか? どんだけ息子ラブなんだろう。それに、ここの店長って、あのガタイの良いヒゲのおやっさんですよね。いつもはピチピチのTシャツなのに、今日はスーツとか着てるんっすかね」
クスクスと若林くんが笑う。
ああ、確かに。私はヒゲ面の店主を思い浮かべ、申し訳ないと思いながらも楽しくなる。
「また明日来ましょう」
「そうだね」
気持ちの良い穏やかな風を感じながら、何を食べようかとまた歩き出した。
了
ちょうどシーズンですね。
ご入学や新成人など、おめでとうございます
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