雨と老人

 夜半からの雨は勢いを弱める気配もなく降り続いていた。仕事の都合で今日はいつもより早い出勤だった。あくびを何度も噛み殺しながら眠い目をこするけれど、頭は冴えず気分も沈みがち。時間を確認して湿気で重くなった髪を手早くまとめ、少しだけ迷って折りたたみ傘を選ぶと駅へと急いだ。

 ところどころに広がった水たまりを細かく避けながら足早に進む。踏んでしまうとつま先を濡らして鬱陶しいため丁寧に避けるのだけど、斜めに振り付ける雨が足元を徐々に濡らしていく。少し頼りなげな折りたたみ傘を進行方向に向ける。このような本降りの日には普通の傘のほうが濡れにくいのだろうけど、つい取り回しの良さを優先してしまった。その結果いつもよりさらに濡れる足元に気を重くしていて気を重くするのだった。

 水たまりを気にして下を向きがちに歩いていると、前から誰かがこちらに向かってくる気配がした。顔を上げてみると、右手に青い傘と新聞を持った老人だった。

 知っている人だった。知り合いということではなく、知っているだけの人。

「そうか、この時間だ」

 この沿線は私が高校生の頃から使っている。今はもう少し遅い時間に利用しているが、そう言えば当時はこのくらいの時間に駅へ向かっていた。その頃、毎朝のように同じ付近ですれ違うおじいさんだった。当時も新聞を片手に歩いていたので、おそらく毎朝の日課として駅のコンビニまで新聞を買いに散歩をしているのではないかと考えていた。あれから十年ほど経っているが、まだ続いているのだと思った。

 おじいさんは濡れる足元を確認し、顔をあげ、前を見て歩く。ひょこひょこという印象で歩いては、また足元を確認し、顔をあげて歩く。

 傘か新聞を左手で持てばいいのにと思ったが、左足を引きずる様子に違和感を感じる。半身は自由に動かせないのかも知れない。

 十年前もそうだった?

 そうだったかも知れないが、そこまで真剣に見ていたわけではないので覚えていなかった。あるいはこの十年の間になにか病気をしたのかも知れない。

 おじいさんは黙々と足元を確認しては、前をまっすぐ見て歩き続ける。不意にその表情が目に入ったのだが、まるでお地蔵さんのように柔和な笑みを湛えていた。やがて私と行き交う。少しして歩きながら振り返ると、おじいさんの背中はゆっくりと遠ざかっていった。

 私は前を向いて、少しだけ視線を上げてみた。

 路線バスがアスファルトに溜まった雨を巻き上げるように大きな水音を立てて通り過ぎる。向こうの家の雨樋からあふれるように流れる雨水。植え込みのツツジは少ししなびた花弁をだらりとぶら下げていたが、若芽の鮮やかな黃緑の葉が雨を弾くようにして光っていた。

 私はまた傘を前へ差し出し、駅へと向かった。


 了

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