残業とお誘い
「おい、
就業時間を過ぎてしばらくした頃、背後から声がかかった。誰なのかは振り返らなくても声でわかった。
「ちょいまち」
キリのいいところまで作業を進めてファイルを保存。体ごと振り向くと、果たして同期の
「相変わらず幅を取ってるわね」
「うるせぇよ」
同期入社も何人か抜けて、残ったのはわたしとこの小原だけだ。たまに仕事帰りに飲みに行ったりと、お互いに気安いので思わず軽口になる。
「飯に、と思ったんだが……なんかトラブルか?」
「ちょっとねー、もうちょっとかかるわ」
雰囲気に何かを察したのか、小原は少し声を抑えて聞いてきた。さすがに大っぴらに愚痴を言うのもどうかと思うので、わたしはごにょごにょっとぼかした。
「ちょい休憩しろよ、コーヒーくらいは奢るぞ」
自販機だけどな、と言って笑う小原について休憩室に行くと宣言通りに缶コーヒーをいただく。普段はブラックだけど、なんか甘いものがほしい気分だったのでカフェオレにした。
「で、どうしたのさ? たしかそっちのプロジェクトはスケジュール遅れてなかったよな?」
「昨日まではね」
残業の理由は、営業の先輩社員がクライアントにいい顔をして、気安く仕様の変更を受けてきたことだった。
「たのむよ、夏目ちゃん」
昨日の夕方、お願いのポーズをしてきた先輩の軽いノリを思い出して顔をしかめる。なんとなく察したのか小原は「あらま」と言って大げさに驚くような素振りを見せる。
「朝も早く来てたよな。まずいのか?」
おっと、朝早く来たことを知ってるんだ。よく見てやがるな。
「まあ普通に仕様変更よ」
昨日なら先輩への愚痴をぶちまけていかもだけど、流石に一日経てば少し冷静になる。腹は立つけどこの業界ではよくあることだ。それに小原はわたしから見てもかなりできるやつだ。要領もいいし気が利く。リーダーシップもある。そして何より、こいつが書くコードは理論的で美しい。そんな彼に対して泣き言をいうのは──なんか悔しい。
「なにか手伝えるか?」
こいつだったら、もっと素早く終わらせるんだろうか。それとももっと要領よく仕様変更を回避したり、未然に防いだりするのだろうか。
入社当時は同じプロジェクトに入っての仕事も多かったが、最近はプログラマーの中でもお互いにリーダー的な役割をすることが多く、別のプロジェクトを担当することばかりだった。最近の直接の仕事ぶりはわからないが、頼りになるという話は伝え聞いていた。
「たぶん明日でなんとかなる。大丈夫」
残りの作業を思い浮かべてざっと見積もる。面倒な箇所はもうやっつけたので問題ないはず。それに、たとえ大変だとしても手伝わせるなんてできるもんか。
「おまえが言うなら大丈夫なんだろうな。じゃあ、いい店見つけたんだけど、明日行こうぜ?」
小原はわたしの胸の内をわかってるのかどうか、さらりと話題を変える。こういうところが気がき……いや、憎らしい。
「どんな店よ?」
「焼き鳥。つくねが美味いのよ」
「よし、頑張るわ」
そう言って腕まくりするような動作をすると、小原はからりと笑った。わたしはその顔をあまり見ないようにして、空になった缶をゴミ箱に突っ込んだ。
了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます