セミ地獄へ進路をとれ

紫空勝男

第1話

いわゆる現世と非常によく似た世界。

いつもの夕暮れ、メイン通りから、一歩裏路地に入ったところに、それは有った。

 空は、都会のサラリーマンが、そろそろ家路を辿る黄昏時から暮色に変わるころ。

 傍目には、地下鉄の駅の入り口に見える。

 夏木と小木は、入り口の前に立ち、夕暮れを食い入るように見つめていた。

「この夕暮れを見ることは、二度と無いのか?」

「だろうな。今までの人生のどんな困難も、なんて幸せだったことか」

 夏木も小木も中学時代は同じ学校で野球部に所属、二人とも人より体格は良く、三年になったときは、夏木はエース、小木は強肩、強打の内野手として活躍した。

 二人の共通点は、腕力も有り、野球をやっていなかったら、結構なワルになる、という素質だ。いや、夏木はワルだった。

 当然、いじめっ子だ。

 とは言っても、小木は、決して喧嘩はしない。小柄な子とプロレスごっこをやって、力の差が、あまりに有るので技を掛けられていた子が泣き出してしまう、というパターンだ。

 対して、夏木は三度の飯より喧嘩が好き、というタイプで、三年になって、野球を引退してからは、度々問題を起こし、高校受験間際には、大事な時期にもかかわらず、他校のワルと喧嘩をして大騒ぎになった。

担任のお婆ちゃん先生は

「一人ずつタイマンでやり合うなんて、やくざがすることです。あなた方の内申書、ぐちゃぐちゃに書き上げますからね!」

やくざは正々堂々タイマンしないと思うが、お婆ちゃん先生の考えなので。 


それでも高校には進学したが、喧嘩に明け暮れ、やがて退学処分になってしまった。

 早々と和菓子店に勤める社会人となったが、

その後はまじめに仕事に励み、地道な人生を歩んできた。

 二人は、四十代半ばになり、久しぶりに此処で再会したのだ。もっと、違った形での再会ならば、どんなに良かったか。積もる話も弾んだかもしれないのに。

 そこへ、お調子者の藤田が来た。彼は二十歳そこそこ、二人とは初対面。

「ういぃーす、あっ、失礼、初めまして藤田と申します。エンジニアやっています。ご一緒宜しくお願いしまーす」

 夏木と小木は呆れ顔で、素っ気無く自己紹介を済ませると、顔を見合わせて、

「この子、全然わかってない」

 二人で心の中でつぶやいた。

 やがて、時が来たようだ。

 街の景色は、いつもと何ら変わらない。ボチボチ灯りが燈る建物も。一日の仕事が終わり、家路を辿る人々の安堵。

 ただ一つ違うのは、二人の胸中に鳴り響くサイレンだ。

「とうとう、この世の見納めか」

夏木がつぶやく。

 彼らは二度と日の光を拝むことは出来ないのか。 

 その入り口から、四角い通路になっていて、緩やかなスロープが、地下へと下り続いていた。その先には深い闇が広がっていた。

 平常心で済ましていられるこの空気さえ、やがては天国にも感じられるのであろう。

 なぜなら、その入り口は現世では『地獄』にあたる世界への招待状なのだから。

 地獄、六道の一つ。罪を犯した悪人が死後に行って永遠の苦痛にあうといわれる所。

 しかし、そんなものが本当にあるとは。

 二人は、ある絶対的な力を受け、本能で運命を感じ、此処に来たのだ。避けることも、抗うことも出来ないものと悟り、此処に居る。

 末期の気分の夏木ではあったが、体内に存在する難解な存在であるミトコンドリアに関する文献を思い出した。

 細胞の中では、核以外で唯一、自分だけのDNAを持つミトコンドリアの未知なる力は計り知れない。想いがそのまま現実化されるとか、意思のようなものが存在し、宇宙の意思であり、神の意志といってもいい。

 「人間の無意識の領域をミトコンドリアの覚醒により、感じる能力を得た。少なくとも、この三人は。でもお調子者の藤田まで何故?」

 夏木は心の中で、そうつぶやいた。

 現に、地下道という形でそれは有るのだ。

こんな力なければ良かったのに。ここには来なかったのに。でも結末は同じか。

 藤田は、今どきの若者で、余談するときは口は上手いが、仕事の話になると、忽ち無口になってしまう。仕事は全く出来ない、といったタイプの人間だ。

 故に、本能では何となく悟ってここには居るが、頭では事の重大さ、絶望的なこの救いようの無い状況を理解出来ていないのだ。

 だが、これから味わう苦痛により、嫌でも理解するだろう。

 三人は、学生時代、多少なり悪さはした。

酒、タバコ、ギャンブル。でも誰でも通る道だ。

 そんなもので、地獄行きにされたら、たまったものではない。しかし、この状況に陥ってしまった。理屈ではないのだ。

 夏木と小木は、最後の街並みを瞳に焼き付け、地下道に入っていった。藤田もヒョコヒョコと続いた。

 スロープを緩やかに下って行く。

「どんな所へ連れて行かれるのでしょうかね」

 能天気な藤田を無視するかのように、二人は黙々と歩を進める。

 百メートル程下り進むと、通路は直角に右に折れた。又、百メートル進むと、又、直角に右に曲がった。この繰り返しが延々と続く。

 四角い螺旋状とでも言うべきか、この通路を五百メートルほど進んだ辺りから、生暖かい空気が、下っている前方の闇から吹いてきたようだ。それに伴って、歩を進むごとに、徐々にではあるが、息が苦しくなっていった。酸素が薄くなっていく感覚だ。大きな下水管のような湿気と温度も手伝って、恐怖感を煽る。

「くっ、いよいよ地獄の責め苦の始まりか」「これから、苦しみが増すことは有っても、和らぐことは無い、か」

 はぁはぁと、一歩一歩確実に息が荒くなるのを感じている二人に、藤田が

「夏木さん、小木さん、何か、すごく呼吸困難になりそうで苦しいです。戻ったほうが宜しいのでは」

「馬鹿か、お前は、それが出来れば最初から此処には来ないよ」

「帰り道など、とっくに断たれているよ」

「えー!でも僕、急速Uターン百八十度します」

 藤田は試みた。しかし、体を反転させたり、バックで歩こうとすると、下半身の感覚が麻痺したようになってしまい、気持だけ焦って体が言うことを聞いてくれないのだ。

 藤田は初めて、冷や汗を垂らしながら、血の気が引いていくのを感じた。

「こっ、殺される」

「人生、前進あるのみだよ」

 と、励ます小木

「でも、こんな前進、嫌だよ」

 でも、やがて冗談も言っていられなくなるだろう、と二人は感じていた。

 どのくらい、下っただろうか、息苦しさは増す一方で、迫り来る死への恐怖に苛まれていた。

 既に意識は朦朧とし、他人の身を案じている場合ではない。窒息死の苦しみは想像不能だ、呼吸困難のその先は。

 死によって、零に帰るなら、まだ救われる。しかし、断末魔の苦しみが永遠に続くなんて、そんな世界があってはならない。人間の想像の産物であって欲しい。いや、きっとそうだ、きっと・・・・・

 

やがて、どれ位の時間が経っただろうか?いや、何年、何十年?

 小木は意識を取り戻した。どうやら、生きてはいるのか?或いは死後の世界?

 とにかく、主観は存在している。傍らで意識を失っている夏木と藤田に気付き、二人を叩き起こす。

「おい、いつまで寝ている、起きろよ、どうやら、まだ死んでないようだ」

 二人は目覚め、きょとんとしている。

 そこは、まるで病院の小児科の待合室のような雰囲気だ。いや、そのものではないか。

「ジュース飲みたい」

「もう、卓ちゃんたら、さっき飲んだばっかりじゃない」

「由香里おばちゃんが、売店で何か、買ってくれるって」

「じゃあ、これ買って」

「えー、ウルトラマンブレーザーの絵本?折角だから、もっと他のものにしなさい」

 小さな子を連れたお母さん達は大変だ。

 そういう母子で、待合室は賑やかだ。窓口のナースも、朗らかに見つめている。 

 どこか、懐かしい光景だ。

 ふと、藤田が、ある光景に気付いた。

 受付窓口の隣に、銭湯の脱衣場のようなスペースが有り、そこは、やや薄暗くなっており、よく見ると、奥に窓扉が有り、窓の外は、何と、湖の岩場になっているのだ。

 久しぶりに見る、外の景色と言うべきか、

でも、自分達のいた地上とは、どこかが違う気もしないでもないが、一体、此処はどういう世界なのだ?

 藤田の目が輝いた。というのも、岩場に浴衣姿の若い女性が、湖を見ながら、腰を下ろして、内輪片手に涼んでいる。

 風呂上りのような感じで、気持良さそうだ。

 その姿は、黒田清輝の絵画『湖畔』を髣髴させる。こちらからは、後姿を見る形になる。

「小木さん、結構、美形かもしれませんよ、声を掛けない手はないですよ」

「おい、一寸待て、ここは地上ではない、何が起きるか、わからないぞ」

「小木さん、勢いが無いですね?此処で行動を起こさないと、後悔しますよ」

 藤田は、岩場に向かった。

「馬鹿、軽率に動くな」

 夏木も制するが、藤田は聞かない。

窓扉を開け、その女性の隣に立ち、湖を眺めて、深呼吸、やや前進し、回り込みながら、女性の顔を覗き込むように、

「お姉さん、・・・」

 声を掛けた直後、あっという間だった。

 夏木も小木も、待合室から遠めに動向を見守っていた。

 藤田の異変に気付くのに、時間はかからなかった。

 待合室に戻ってきた藤田は、まるで別人だった。

 あの明るい性分の藤田が、死人のような顔色になっている。

 藤田は笑顔を失ってしまった。一体、彼はあの浴衣姿の女性に、何を見たというのだ。

 

やがて、あの小児科のような、和やかなフロアも一変してしまった。

 白いミストのような腐汁が降ってきたのだ

手に付いた水滴を嗅ぐと、吐き気を催す様な悪臭がする。腐敗の進んだ死体のような匂いだ。

 フロアに悪臭の主がいた。

何とも形容しがたい異形。四間位の長さの巨大なナマコのような姿だ。うねうねと白く長い巨体を動かしている。頭は白い巨大なイソギンチャクのような姿だ。

 イソギンチャクの頭の口からシームレスに吐き出される汚物ミストを眺めていた小木は激しい嫌悪感に襲われた。

「調子こきやがって」

駆け寄り、口を塞ぐように覆いかぶさった。

しかし、あざ笑うように、わずかに生じる隙間から天井にミストは排出続ける。中学時代のプロレスごっこのようには行かない。

 ふと見ると長い胴体のサイド部分がゆっくりと僅かな収縮を繰り返している。 

「生意気に呼吸なんかしているのか!」

呼吸なんぞ出来ない体にしてやる!

激しい衝動に襲われ、力任せに横っ腹に膝蹴りをぶち込んだ。これでもか、これでもか、と言わんばかりに何度も何度も。

 でも、弾力のあるブヨブヨした体は衝撃を吸収してしまい、大したダメージは与えられていない。

「畜生!」

中学時代のフラッシュバック。

 ほんの軽い気持ちで屋上に連れて、プロレス技をかけようと、階段の上方から手招き。用心深いあいつは、警戒して逃げるように階段を下った。カッとなり、追いかけるように駆け下り、廊下で追いついたタイミングで尻に渾身の回し蹴りを放った。バーンという衝撃音が階段まで響いた。

たまたま廊下にいた小木の仲間が

「おいおい、泣いちまうぞ!」

体重差のある相手への蹴り。多分全身に衝撃が走っただろうな。悪かったな。

 

今は、異形相手に蹴りを放っている。

幾分、気持ちが冷静になったら化け物は消えていた。

 気が付くと、全身腐汁塗れになっていた。

 汁による吐き気に苦しんでいたお母さんや子供たちの注目を浴びていた。

「怖いおじさんだからね、見ないほうが良いよ」

布で口を覆いながら子供に注意した。

「でも、気持ち悪いイモムシをやっつけたよ」

小木は思い立ってお母さんたちに

「ここは、どういう所なのですか?」

だが、お母さんたちは、答えることを恐れるように、子供たちの手を引いて後ずさりしてしまった。

 なんだ?やばいのか?

だが小木は冷静に考えて、ここは本当に地獄なのか?という思いになった。

確かに恐ろしいことは起きている。でも、痛みや苦しみに永遠に苛まれ続ける、という状態ではない。通路を延々と下ってきたときは息苦しさが増し続け、想像する地獄に近づいているという感覚に恐怖した。

地獄の苦しみにも、インターバルのような緩急があり、肉体よりも精神的なダメージを受け、それが永劫繰り返される世界なのか?

いや、痛みを伴う苦しみもこれから与えられ、

苛まれ続けるのか?魔導士に地獄に連れられてしまうイギリスのホラー映画のように。

それはそれで恐ろしいが、インターバルはある。地獄の業火に永遠に焼かれたり、舌を引っこ抜かれ、その瞬間の激痛が治まることなく、永遠に味わい続ける地獄の苦しみ、というわけではない。

今も臭い液まみれで非常に不愉快だが、肉体的苦痛は感じていない。

「大丈夫か、将一」

「カグラ、加勢してくれよ、お前の腕力と合わせれば?」

「お前が切れたの初めて見たよ。腕力は俺と同じくらいと思っていたが、意外と平和主義で、昔の俺らの乱闘の数々には参加しなかったよな」

 二人は久々に下の名前を呼びあった。

「あのー、さっき聞かれたことですけどー」

振り向くと、質問に後ずさりしてしまったお母さんたちのひとりだった。

「怖いのです。いつ本当の地獄におくられてしまうのかが」

「と言いますと?」

「ここはセミ地獄といって、本当の地獄よりは、かなり苦痛が楽らしいのです。それでも苦しいことは度々起こって気が休まりませんけど」

お母さんの体に寄り添うように、男の子が二人を見つめていた。やがて思い立ったように

「もう一人のチャラいおじさんは?」

小木と夏木は思い出したように顔を見合わせた。あいつ、どんな具合だ。あの女?に魂でも食われちまったのか?


「うぐー!」

奥のお母さんたちが再び猛烈な吐き気に襲われた。さっきは魔物による作用だったが、今度は直接お母さんたちの体の症状みたいだ」

「ママ、しっかりして負けないで!」

皆、必死に口を掌で覆って何かに耐えようとしていた。負けてしまったら別の責苦を受けてしまうのか?

だが、そのお母さんたちは、みるみる平常心を失ってしまい、ある者は半狂乱状態、ある者はムンクの「不安」の絵のような表情になってしまった。まるで蝋人形のようだ。

「お母さん、サルトルの世界に行かないで!」

「坊主、サルトルの世界とは何だ?」

夏木は子供に尋ねた。

「哲学者の『サルトルの嘔吐』の世界が作られ、自身の見るグロテスク? な光景に自我を保たれない者は、その世界に引き込まれる」

「お母さん、とにかく頑張れ、今までの人生の見聞を頼りに、自我をしっかり保て」

喧嘩好きだが、少し博学である夏木は大方状況を把握した。

 世の中のものは、本質を理解されている。だから、空があり陸があり、いろいろな物、人がいる等、当たり前のことだが、主観で世界の構成をとらえることが出来る。だが、その本質の理解を取り払ってしまったら?

 得体のしれないものがあふれ、嘔吐したくなってしまうような世界に見えてしまうだろう。確か『サルトルの嘔吐』は、本人の体験による感覚だったかな。

 一瞬、夏木に、

地球の果てでも真理、宇宙の果てでも真理、地球こそ我が故郷、宇宙こそ我が故郷!

 妙な感覚だった。まるで本当の自分と会話出来たような! 何だ今のは!

我に返った夏木は、お母さんたちの肩を両手で掴み、ゆするように励まし続けた。でも、健闘虚しく、正常な精神に戻すのは容易ではない。いや、不可能に近いかもしれない。ここはセミ地獄なのだ。負けるな!

泣きじゃくる子供たちに、

「しっかりしろ、おじさんたちがなんとするから」

少なくとも、地獄ではないかもしれないという微かな希望。

幸か不幸か、ここは子供たちを放っておいても、現世のように飢え死にしたり、病にかかったり、そういう心配は無いだろう、と夏木は思った。突発性の責め苦だけ気を付ければ。


でも待てよ?なぜ年端のいかぬ子がサルトルなんて難しいことを知っているのだ。

 夏木は泣きやめかけているさっきの子に

「サルトルなんて、よく知っているね」

腰をかがめて聞いてみた。

「お母さんが良い学校に入れたがって、学校よりも塾で頑張れ、しくじったら人生全否定って感じ」

学校よりも塾のレベルが上だって、うちのも子供がチビだったころ、言っていたな。

そうかぁ、俺のスマホは失われたし、あいつら今頃・・・とにかく俺が居なくなってもパニックから立ち直ってくれよ。

何となく、この親子たちが何故、ここにいるのかも見えてきた。でもこの程度で?


そのころ、地上の現世では田宮充彦が

「異端児が現れたら、皆と違うという理由で、皆で全否定して取り敢えず自分たちを安心させる。偏見は無知の浅知恵とはよく言ったものですよ。自治会は厄介で困ります」

「無知の浅知恵、なるほどねぇ」

夕暮れに馴染みのとんかつ屋のカウンターでマスターと話していた。

田宮は四十代半ばで独身。でも高校の卒業式は総代を務めるほどの才人であった。

一戸建てを購入して、この街に越してきたが、近所とは色々あって馴染めないらしい。

イラっとしながら食べるのは胃に悪いし、せっかくのお勧めチーズとんかつ定食が台無しになってしまうので、二言三言世間話をして、トンカツを堪能して、そろそろ増えてきた客を横目に、のれんを出た。

幾つかの落ち葉が足元を流れていった。えんじ色から漆黒に移り目の空。

見た目は同じでも夏木たちが最後に見た夕暮れとは全然違うのだ。田宮の見た夕暮れは今の彼らにとっては夢のような世界だ。

たまには散歩がてら海老原川沿いを歩いて帰るか。

生活排水で汚れてしまい、問題になった時期もあったが、何とか市の事業で浄化が進み、少しは風情が戻った、中くらいの規模の川だ。

川岸に灯る安堵のネオンの先の河口方向には、規則正しい間隔で照明灯が並ぶ高速道路の高架橋。

無数の光が左に右に行き交い、海老原川を彩っていた。

東京湾に望む大きな街だが、微かに潮の香りを感じながら田宮は

「仕事終わりの、このひと時の安堵感を味わえる幸せを忘れてしまったら終わりだな。人は人生という大海原を離陸したら、どこに着陸しようとしているのだろうか?どこに着陸したら永遠の満足を得られるのか? 懸命に努力して、成し遂げても次から次へと願望、というか欲望は際限なく生まれ、いつまで経っても何かに飢えている。これじゃ餓鬼に憑依されているのと同じだよ。あのとき俺は、私は熱かった、頑張ったな! これさえあれば、どこでも生きていける! そういうのを持っていれば、良いじゃない! それにしても、自治会行きたくねぇ」

この価値観で生きてきた。

田宮は中学時代、尊敬していた部活の顧問から部員たちに

「良いか、おまえら、勉強と部活だけ一生懸命やれ、その他はなーんにもやらなくて良い」

顧問自身も学生時代そのように文武両道に励んだ。これも一つの価値基準。

 

セミ地獄では今度は小木が一人のお母さんと話していた。なぜこの地獄を知っているのか、なぜここにいるのか、を知りたかった。お母さんは表情を曇らせながら、

「まだこの子をベビーカーに乗せていたころ、ショッピングモールで、すれ違った年配の女性の方にまあ! 可愛い! 私子供がいないから羨ましい。ポニョポニョ。指先で頬をやさしくツンツンしただけ。でも突然泣き出してしまったのです。思わずカッとなり、何勝手に触っているの!子供育てたこともないくせに! 酷いことを言ってしまいました。後でわかったけど、おなかがすいただけ。タイミングが悪かったのね」

お母さんは涙目になった。

他のお母さんたちも似たような、いきさつらしい。

気が付いたら、この世界にいたとのこと。

せめて子供だけは・・・

「辛いですね。でもその女性はあなたが思っているより、理知的で強い人ですよ。ここは地獄に近いけど、地獄ではない。だから希望はあります。何とか戻りましょう」

とは言ったものの小木は、一抹の不安はある。だが励ました言葉も本心からだ。


田宮の住む街とは離れた、同じ首都圏の街の湖で溝松光乃は、たそがれていた。

堰堤で湖を見つめる先には富士山も。ウェーブショートに尖った鼻先が映える美しい横顔。

通りすがりの一見気の弱そうな青年が自転車を止め、彼女の横顔を何度もチラ見していた。

見つめられてしまうのは、彼女の宿命だ。

見つめられたタイミングで急に首を傾け青年をにらみ返した。切れ長の目。青年は慌てた。目のやり場に困って、キョロキョロして別の何かを見ているフリをしたが、後の祭り。

170度以内は十分視界に入っている。気が付かないとでも思ったか!

内心で思ったが、口に出して威嚇しなかっただけ、彼女も大人になったのだ。

十年以上前になるが溝松は高校時代、クラスの女子を仕切っていた。いや、それに近い存在感だった。

自分からは殆ど喋らないが、勉学は非常に優秀な松下真奈美が同じクラスにいた。

休み時間、教室を出ようとした松下を溝松が扉付近、片手で壁ドン!通せんぼした。

松下ののっぺりとした横顔と溝松の彫の深い好戦的な横顔が向かい合う。主従関係がそのまま反映しているような絵柄だ。

大人しい松下は何も言えない。近くにいた数人の溝松の悪友女子たちは松下をケラケラと笑った。結局溝松は彼女を開放、行かせてあげた。

 

 さて田宮光彦はどちらかというとスマホに無頓着だ。見知らぬ人物からメールが来ているのに気付いていない。送り主はカルチャースクールでエッセイや俳句を教えている東野聖美だ。内容はセミ地獄の概要。個人的な見解も多分に入っている。要点は

「ユングの心理学に基づく主体(見るもの、意識)客体(見られるもの、物体) この世は複合性で出来ている。意識している世界と無意識の世界。脳の大半は無意識の領域。この無意識の世界に真理が存在するという考え。私たちはたまたま、人として生を受け、存在しているが、その姿は仮のようなもので本当の自分が存在する世界がどこかに存在する。真理。そして本当の自分も真理を構成している大切なエレメント。実は、ある人気作家も、こういう世界の存在を信じており、本当の自分に会ってみたいと、自身のエッセイで記述している。でもこういう世界の存在の可能性は、人の生死を超えて、少し雄大な気分にならない? ミトコンドリアの作用かは、わからないけど、潜在的に真理を感じることが出来る人たちが、少数だが存在する。その人たちは、あらゆる見聞が流し込まれる感覚を体験している筈。個人差はあるけど。真理はまた、セミ地獄なる世界を作り、極悪ではないが、心に闇を持ち、人の心を傷つけてしまった人間を引き込んでしまっている。良きも悪きも真理。でもあなたのような、心の支えを持った強い人間が救助を担うチャレンジャーに選ばれるかも。是非、冒険を選ぶチャレンジャーになって欲しい。英断に期待します。このメールも、私の見聞を得る能力によるものと認識してください」

今日は一段と夜景が沁みるので、田宮はスマホで写メを撮った。すると、突然着信が。

「あなたが田宮さんですか?溝松と申します」

「はい、そうですが、あなたはどういう?」

「東野さんからの新着メール見てないの?結構ヤバイ状況になっているらしいよ。あなた、ホントに選ばれたの? とろいな。セミ地獄の人たちを助けるみたいな使命を選択するか、しないかだよ。真理とやらの世界から、既に小木と夏木とかいうオッサンが誘われ、乗り込んだけど、自分たちが選ばれた理由、状況に対しては半信半疑の部分もあり、苦戦しているみたい。ネガティブは禁物なのに。あと藤田とかいうガキみたいな奴が、しくじった感半端ない。よせばいいのに、地獄でナンパ。生死の境をさまよっている。とはいえ地獄だけどね。とにかく地図を送る。決心したら、一週間後にその場所へ。地下鉄の駅の入り口のような感じらしいよ。苦痛は覚悟して!」

「地獄というとより、真理が具現化した心の闇? なんでもありの世界、潜在意識で幾度か感じたことはあります」

「あなたも選ばれたのだから、そのくらい感じられるでしょ? 私は学生時代、悪い子ちゃんだったから、罪滅ぼしで引き受けた」

東京湾を望む夜景は何ら、いつもと同じ。

遠めの高速道路を眺めるチャレンジャーの胸のサイレンだけが夜の海老原川に鳴り響いていた。



数年後、いや数か月だったのかも。

病室のベッドで藤田は目を覚ました。

近眼のぼやけた視界。

「はい、眼鏡」

溝松が渡した。

夏木、小木、田宮もベッドを囲んでいた。

「なんか悪い夢をずっと見ていたような?」

「何も覚えてないくせに」

「でも藤田の内なる世界に、宇宙の悪魔メフィスト何とか? ただのバカじゃねぇ!」

「ハハ、きついな小木さん」

「でも悪には悪を、で随分助けられたよ、お前の守護神、いや悪魔か」

「悪魔はセミ地獄に苦しめられていた人たちに、本当のお前たちは万象を司っているもの。宇宙の果てでも真理、宇宙の果てまで悪でも良いぞ、と吹き込んでいたな。でも、おかげで皆ポジティブになりアイデンティティを得た。思いが強いほど救われる」

 目に見える世界だけが全てではない、と知った者たちの眼は明るかった。

              




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