2.忘れ去られた文字たち
夜の十二時ぴったり、大きな置き時計がボーンと鐘を打つと同時に、開けておいた窓から、フフランがスイッと飛び込んできた。
「よう、ロティア。こんばんは」
「こんばんは、フフラン。場所がちゃんと伝わっててよかった」
「ナナカマドの木が立派だったから、すぐにわかったぞ。あ、ちゃんと温かくしてるな」
#外套__がいとう__#の他に、柔らかい首巻き、手袋、帽子まで身につけているロティアに、フフランは「えらいな」と言って、満足げにうなずいた。
「それじゃあ、行くか」
「うんっ」
フフランを先頭に、ロティアは胸を高鳴らせながら、夜の空へ飛び出した。
今夜は月がなかった。
雲ひとつない夜空で輝く星々は、無数の細かい光を落としている。まるで光る雨のようだ。
音は風の他に何もなく静かで、ロティアは、自分の心臓がいつもの何倍も大きく鳴っているのがよくわかった。
でもこれは緊張じゃない。ワクワクだわ!
そう思うと、ロティアは自然と笑みがこぼれ、声を上げて笑いたくなった。
「ああ、気持ちいいねえ、フフラン」
ロティアはホウキから右手だけを離して、大きく伸びをした。
十一月の夜の冷たい風が服の中に入ってくるのも気にならないくらい気分が良かった。
むしろこの冷たさが、今この瞬間が現実だ、と教えてくれているような気がした。
「ホントだなあ。今日はまさしく、夜のお散歩にぴったりだ」
「フフランはこうしてよく夜にお散歩するの?」
「うーん、昼の方が多いかな。やっぱり太陽の下で飛ぶのが一番だからな」
フフランはロティアの方を見て、「今はロティアが一緒だから楽しいけどな」と言った。
「それはわたしのセリフだよ。すっごく楽しい!」
「そりゃあよかった!」
目的地につくまでの間、二人は色々な話をした。
フフランの仲間のこと、ロティアの兄弟のこと、鳥は夜はどう過ごしているか、ロティアは昼間にどうすごしているか。
当然だが、魔法使いのロティアとハトのフフランでは、違っていることの方が多かった。
「ハトには学校も家庭教師もないからな。親鳥にちょっと教えてもらって、あとは実践あるのみだ」とフフランは言った。
「だから失敗もたくさんあるよ。でも、失敗したからって、ハト同士じゃ、誰も責めたりしないんだ。みんな、自分のために、自分で生きてるからな。……こう言うと、自分勝手な生き物みたいだな」
フフランは恥ずかしそうに「ヘヘッ」と笑った。
「そんなことないよ! むしろ、フフランはすごく優しいじゃない! ……わたし、生まれて初めてだったもの。自分の魔法のこと、褒めてもらったの」
ロティアがムキになってそう言うと、フフランは今度は照れくさそうに「ヘヘッ」と笑った。
「ありがとな、ロティア」
「もうっ。ありがとうはわたしのセリフだよ」
ロティアとフフランは身を寄せ合い、隣り合って空を飛んで行った。
✒
「――到着だ!」
ロティアとフフランは、街道にポツンと立つ、傾いた看板の前に降り立った。
右を見ても左を見ても、誰もいない。
いつもは馬車や人で土ボコリが上がり続ける街道に、一人と一羽だけで立っているのは、少し心細く感じた。
「この看板に貼られた紙から、インクを取り出してほしいんだ。そんで取り出したのは……」
フフランは、自分の首に巻いてあるハンカチを取るように言った。
フフランの羽と同じ真っ白いハンカチを取ると、中から小さなビンと、ビンの口にピッタリ合う大きさのどんぐりが出てきた。
「取り出したインクは、これの中に入れてくれ」
「えっ! そ、そんなこと、できるかな……」
「オイラにもわからん! でも、試す価値はあるぞ!」
「どうして?」
「昼間に魔法を見せてくれた時、ロティアが手で払ったインクが、そばにあった石の上に落ちたんだ。そしたら、石にインクが貼り付いたのを見たんだよ。それを見て思ったんだ。ロティアが取り出したインクは、もう一度、インクとして使えるんじゃないか、って?」
「……そんなこと、考えたこともなかった」
この魔法が使えるとわかった時、両親は心底ガッカリしたらしく、魔法のことをほとんど調べなかったのだ。
それがショックだったロティア自身も、この魔法について、深く考えようとしてこなかった。
フフランは、たった一回見ただけで、いろんなことを考えてくれたんだ。
やっぱりフフランは、すごいハトさんだわ。
せめてフフランの役には立ちたい。
ロティアはそう言い聞かせ、両手をギュウッとにぎりしめた。
「わ、わかった! やってみるよ!」
「おうっ! オイラの手伝いをしながら、いろいろ試してみようぜ!」
文字をなぞり始めたロティアは、まるで字が読めないことに気が付いた。昼間にいた国は同じ言葉を使っている。どうやら正反対に位置する、言語の異なる方の国にやって来たらしい。
街道にある看板ということは、この辺りの地名や地図が書かれているのであろう。しかしその割には、文字が多いような気がした。
「ねえ、フフラン。これって何が書かれてるの?」
「オイラもしっかりは読めないんだよなあ」
「えっ、そうなの! ……今更だけど、勝手に取り出して良いのかな? 大事なことが書いてある看板だったらどうしよう。フフランも何が書いてあるのかわからないんでしょう」
ロティアがピタッと手を止めると、フフランが肩にとまって「大丈夫!」と声を上げた。
「人間はやたらと文字をしたためるのに、すぐに忘れちゃうんだ。この看板もそう。一ヶ月観察してたけど、ここを通る人は、誰もこの看板の前で足を止めなかったぞ」
フフランは羽で左を示して、「ちなみに、この辺りの地図なら、あっちにあるぞ」と付け足した。
そう言われてみると、確かにこの看板は空から見ても、横に大きく傾いているのがわかったことを思い出した。
紙は端のほうがやぶけたり、色が変わったりしている。一番大切な文字も、雨風のせいですっかり#褪__あ__#せていた。
忘れ去られた文字なんだ。
なんだかかわいそう。
ロティアは左手で優しく文字をなでた。
「……それじゃあ、取ってもいいかな」
「大丈夫! オイラが
「それからみんなも」とフフランは
ロティアは、「みんな」が誰なのか気になった。
みんなって誰のことだろう。
ハトさんたちのことかな。
それとも、忘れられた文字たちのことかな。
答えを知りたいと思った。しかし、すぐに聞くのはやめようと思った。
この時のフフランは、初めて、話したくなさそうに見えたのだ。
✒
「――よしっ、全部取り出せたよ!」
ロティアの体の周りには海藻のようなインクがふよふよと浮かんでいる。
これだけの量を取り出したのは初めてだ。
虫の大群みたいでちょっと気持ち悪いな、とロティアは思い、ブルリと体を震わせた。
「よしきた! それじゃあ、うまいこと瓶に入れよう!」
「う、うん」
ロティアは試しに、文字の一つに杖の先を近づけてみる。すると、文字は磁石のように吸い寄せられて、他の文字も順番通りについてきた。
「わっ、わっ! すごい! このまま、杖をビンの中に入れればいいかな」
「やってみよう! うまくいくかもしれない!」
ロティアはゆっくりと杖をビンに近づけていった。そして、コツンッと小さな音が鳴って杖が底にぶつかると、とたんに文字が崩れてインクになり、スルスルとビンの中に流れ込んでいった。
「やったー! 成功だ!」
フフランはビュンッと空高く飛び上がって、そのまま竜巻のような速さでグルグルグルッと回った。
ロティアも杖をゆっくりと抜き取ってから、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。
「やったね、フフラン! こんなにうまくいくなんて!」
「ロティアがうまかったのさ!」
「フフランのアイディアのおかげだよ!」
ロティアとフフランはお互いをほめあい、フワフワと優しく抱きしめあった。
すごい! 本当にインクを新しく生まれ変えることができるかもしれないんだ!
ロティアは体の奥からわき上がってくる熱を爆発させるように、大声で言った。
「どんどんやろう、フフラン! わたし、次もうまくやれる気がする!」
ロティアのキラキラした瞳に、フフランは二ッと笑った。
「ああ! 一緒にがんばろう、ロティア!」
中指ほどの大きさがあったビンは、十枚の忘れられた看板から文字を取り出して回るうちに、あっという間にいっぱいになった。
そのころには空が少しずつ白み始めた。もうじき朝がやってくるのだ。
「ありがとな、ロティア。一晩でいっぱいにできるなんて思ってなかったよ」
「どういたしまして。うまくいってよかった。これで、フフランがやりたいことができる?」
ロティアがあくびをかみ殺して尋ねると、フフランは気まずそうにうつむいて、「うーん」とうなった。
「……正直、これじゃあ足りないんだ」
「えっ、そうなの!」
ロティアは一瞬で目が覚めてしまった。フフランのやりたいことはロティアの想像よりも遥かに
「でも、ビンが一本しか見つけられなかったからなあ。これで描くしかないな」
フフランは自分の隣りに置かれた黒いインクでいっぱいのビンをじっくりと見た。
ロティアも家族が起きる前には家に帰らなければならない。しかも注意する相手は家族だけではない。
召使たちにも見つからないように家に帰らなければならないため、彼らが起きるまでには自分の部屋のベッドにいなければならない。毎朝、専属のメイドであるリタがロティアを起こしに来るのだ。
しかしロティアは、フフランとこのまま別れるのはいやだった。
あんなにも自分を励ましてくれたフフランが困っているのだ。放っておけるはずがない。
「……ねえ、フフラン。よかったら、明日もやらない?」
フフランはバサッと翼を広げて飛び上がり、「ええっ!」と声を上げた。
「そう何度も夜に抜け出すのは、体に良くないだろう。疲れちゃうよ」
「でも、まだ足りないんでしょう。フフランに必要なインクが集まるまで、最後まで、手伝わせてよ。わたしのことをインクみたいな暗闇から助けてくれたように、わたしもフフランを助けたいの」
ロティアは、フフランの目を真っ直ぐに見つめながら、ゆっくりと、自分の言葉でそう伝えた。
フフランは「クルルゥ……」とハトらしく鳴いて、細い足で地面を
気まずそうに話す人間がする仕草と似ている。
「……なんだか、ロティアを、うまくダマしたみたいじゃないか?」
「そんなことないよ、助け合いだよ」
ロティアがそっとフフランの羽をなでると、フフランは「……そうか、助け合いかあ」とつぶやいた。
そしてパッと飛び上がった。
「ありがとな、ロティア! それじゃあまた明日も頼むよ!」
「もちろん!」
ロティアとフフランはまたにっこりとほほえみ合った。
「――ところで、フフランはインクを集めて何をするつもりなの? それが分かれば、必要な量がわかるでしょう。ちょうどいいビンを用意しておけるけど」
「ああ、最初に言ってなかったか。実はな、オイラ、絵が描きたいんだ」
「絵?」
フフランはロティアの肩にとまって「そう、絵」とくり返した。
「思いっきり描きたい絵とキャンバスがあるんだ」
「へえ! どうやって描くの? まさか筆をくわえるとか?」
「これさ」
そう言って、フフランは自分の羽を一本、自分のくちばしで器用に引っこ抜いた。
「この羽に、インクをつけて描くんだ」
驚きばかりの答えに、ロティアはちょっとぼんやりした頭で「そうなんだ」と答えた。
フフランを疑うつもりはないけど、羽にインクをつけただけでそんなにうまく描けるのかな、とロティアは思った。
「……ねえ、フフラン、ひょっとして羽ペンと間違えてる? あれは、羽をペン先と金具で
フフランはケラケラ笑いながら「知ってるよ!」と答えた。
「心配するな、ロティア! オイラの羽にインクをつければ、きっとそこらの筆よりも良い筆になるぞ!」
「そう? それなら、良いけど……」
まだ少し心配だったが、自信満々なフフランを見ると、これ以上心配するのは失礼な気がした。
「……絵、描けたら見てもいい?」
「当たり前だろ! 楽しみにしててくれ!」
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