#Men's Needs

ヒサノ

#Men's Needs




 松山が遅れて辿りついたチェーン居酒屋の座敷は騒々しかった。


 店内の喧騒とは裏腹に、彼の頭の中にはまだ、先ほど再提出したばかりの課題レポートの内容が気まぐれに浮かび上がり、ぐるぐると反芻していた。


 そもそもは、政治色の強い教授の授業だとは知らずに受講したのが、運の尽きだったのかもしれない。理不尽にレポートの再提出を求められた松山と他数名の学生たちは、互いに相談しながらレポートの内容を改めて書き直すことになった。


「マジで意味わかんねえし、こういうのキツイわ――」学生たちは同じようなことを呟きあった。


 そして先ほど、教授への愚痴を言い合いながらも、連携して連絡を取り合い、なんとか協力してレポートを提出し終えたところだった。提出したレポートはみんな似たような内容になってしまったが、単位さえ取れれば、そんなことは知ったこっちゃない。


 無事に目的を果たした彼らは、一時的な団結に連帯感を覚えつつも、すぐに解散し、再びそれぞれの日常に戻っていった。


 松山は、ひとまずの安堵と疲れから、ため息まじりにあいている席に座った。


 すでに酒を飲んで酔いが回っているサークル仲間たちは、楽しげにガヤガヤと騒いでいる。


 飲み会がいくつも重なっているらしく、他の座敷席からも笑い声が響いてくる。


 だが、そこに折り悪く、サークルの宴会とは無関係の友人、藤原から連絡が入った。


 松山が自分の席に座り、ビールを頼んですぐのことだった。



        ◇



「もしもし?」松山は座敷を飛び出し、眉根を寄せて、儀礼的に対応する。


「あー、もしもし――」藤原の声は遠くにいるかのように小さい。耳をすましても居酒屋の雑音にかき消されそうだった。


「もしもし? 藤原?」松山は音量をあげつつ、少しでも静かな場所を探して店内の廊下をうろうろと歩いた。


「ああ……」藤原はため息をついた。吐息がマイクに当たったのか、ざらついた感触が伝わってくる。


「どうした?」松山は確認する。


「ええ? わかんない……」藤原は返事をする。声は届いているようだった。


 松山がいる居酒屋とは対照的に、藤原がしんとした沈黙のなかにいることが伝わってくる。


「ちょっと待って、お前、いまどこに居るわけ?」松山は声を大きくした。どこか様子がおかしい。


「いやあ、どこだろう? それより、星がすごいキレイだ――」藤原は再び吐息をついた。松山にはくぐもった音声として響く。


「は?」松山は困惑した。外にいるのか?


「あーと、なんかさ、体がぜんぜん動かないんだけど」藤原は続ける。


「え? ちょっと待てよ。なに言ってのるか全然分からない」松山はトイレの入口のの柱に寄りかかった。ここはかろうじて音声が聞き取りやすい。


「なんかすげえ寒い。バイクで転んだんだっけ?」藤原の声が段々とハッキリ聞こえてきた。


「ええっ? なに? 事故ったのか?」松山は通話を切りたくなっていた。一度落ち着いて、再び掛け直したいと考えていた。自分もたった今、居酒屋に来たばかりだ。


「わかんない」藤原は言った。


「はあ……」今度は松山がため息をついた。藤原にざらついた音声として伝わったことだろう。


「おれここで死んでもいいかも。すげぇ星がきれいだよ」藤原は言った。


「おい。だから、どこに居るんだよ?」松山はゆっくりと尋ねた。


 再び藤原のため息が聞こえた。自分の耳元に吹きかけられているようで、松山には不快だった。


 そして通話は途切れた。


 松山の頭の中には、混乱とイラ立ちが湧いていた。


 友人である藤原が、いつも通りではない状況にいることはすぐに分かった。


 しかし、心配とは別の感情も湧いていた。


――なんだろう、すげえ面倒くさい。


 松山は、理不尽にレポート再提出を求められたことにも、自分が宴会に遅れて参加したことにも、急に変な連絡をよこされたことにも、イラ立ちを感じていた。


 松山は目を閉じ、鼻の奥で小さくゆっくりと呻いた。それから小刻みに首を横に振った。


 藤原がどこに居るのかは分からないが、心当たりは――ある。



        ◇



 松山は自身のサークルの宴会が行われている座敷に戻ると、仲間たちを見渡した。


 最終的に、足元に後輩の大森君を見つけて、話をつけた。彼なら信頼できる。


「ごめん、おれ幹事だったけど、急に用事ができたから、この後のこと、任せても良いかな?」


 後輩の大森君はゆっくりと松山の顔を見た。大森君はアルコールが苦手で、ほとんど飲んでいないようだった。彼は考え事をしているのか、黙って酔ったサークルの仲間の奇怪な動向を見守っていた。


 目の前の皿には、くし切りにされたトマトと鶏の唐揚げが放置されている。


 大森君は松山の言葉をゆっくりと吟味し終えたのか、口を開いた。


「ああー、全然いいっスヨ。あれですよね? 小栗先輩は、三次会で必ずやらかすから、その前に帰すんですよね?」


 松山は頷いた。大森君は分かってる。


「そうそう。だけど、小栗は借りてくから、一次会の会計だけ頼むわ」


 大森君はゆっくりと頷いた。


 それから松山は小栗を探した。



        ◇



 小栗は顔を赤くしながら目を閉じ、壁に寄りかかっていた。


 ひょろ長い手足を力なく投げ出し、人生が祝福されたようなご満悦な表情をしている。


 すでに勢いにまかせて、そこそこの量を飲んでいるらしい。この調子だと、二次会があったら確実にやらかしそうだった。


 松山は小栗に近づいて言った。


「ねえ、急なんだけどさ、車貸してくれない?」


 小栗は片目だけ開けて、松山を見た。


「なんでぇ? 飲酒運転はいけませんよ!」小栗はそう言うと、何かが自分で面白かったのか、えへへっと笑った。


「おれはまだ飲んでねえのよ。まったく」


「車は別にいいですけど、自分はもう運転できませんよう?」小栗は満ち足りた表情で言った。


 小栗は松山と同い年でも、いつも敬語を使った。松山にはよく分からなかったが、本人曰く、心の身分に従っているらしい。


「おれが運転するから、貸してくれ」


「全然いいっすよ。事故らないでくださいね」小栗は息を吐き、再び両目を閉じようとした。


「車はどこ?」


「いつもの駐車場、に置いてありますけど?」小栗は目を閉じながら言った。


「わかった。お前も連れてくわ」


 そうして松山は、小栗を支えながら立たせると、そのまま座敷を後にした。


 小栗はもたつきながら財布から自分の飲み代を取り出すと、松山に手渡した。


 松山はそいつをテーブルに置くと、小栗の代金がここにある、と周りに示した。



        ◇



 酔っ払いを引き連れて歩くのは重労働だったが、なんとか小栗の車に乗ることができた。


 小栗は自分の部屋から車の鍵を持ち出し、松山に渡すまでに2度、鍵を地面に落とした。その度に、金属同士がぶつかり、ガチャっとはじける音がアパートの周囲に響いた。


 小栗は、自分の部屋でぐっすり眠っていたいと言ったが、松山はそれを拒否した。


 助手席に小栗を押し込み、松山が運転席に乗り込んだ。



        ◇



 藤原がいまどうなっているのかは分からない。


 ただ、自分たちの通うキャンパスは、街の外れに位置しており、そこから伸びる幹線道路は限られていた。


 そして藤原はよく、気晴らしのために郊外から山に伸びる農道を、自前の原付で走っていた。


 田園地帯を抜け、少し山道に差し掛かった場所に、いい日帰り温泉があるとか言っていた。



        ◇



 キャンパスとその周辺の学生街を抜けると、すぐに畑と田んぼだらけの殺風景な空間が広がる。


 日が暮れると明かりらしい明かりもなくなり、車のヘッドライトだけが頼りになる。


「小栗。悪いけど、道路脇をよく見ててくれないかな?」松山は言った。


「えぇ? なんすか?」小栗は眠そうな声で尋ねた。


「もしかしたら、人が倒れて落ちてるかもしれないから」松山は言った。


「マジすか? やばいっすね」小栗はそう言って、助手席の背もたれをずり上がり、窓の外を眺めた。性根が素直な人間は、酔っ払っても素直なままだ。


 小栗は目を凝らしたが、外の空間は真っ暗でよく見えない。



        ◇



 必要以上にゆっくりと走行しているせいで、何度も後ろの車に追いつかれた。


 松山はその度ごとにウインカーを出して、先に行かせた。


 後続車は松山たちの乗った車を追い越すと、スピードもそのままに、勢い良く走り去り、テールランプもすぐに見えなくなった。開放的な農道では、人は法定速度をあまり考慮しないのだろう。


 同じ道路を走っていても用事はそれぞれだ。それに、抱えている要件はこちらのほうが例外的だ――。松山は思った。


 こんな真っ暗で何もない場所に藤原はいるのだろうか?


 いたところで、どうする? 挨拶して、見届けて、そのまま置いていくか?


 松山は自分の直感を疑いはじめた。


 その時、小栗が過去完了形でつぶやいた。


「あ、いまなんかバイクみたいなの転がってましたね」



        ◇



 松山は急いで、脇道を探して、車をUターンさせた。


 車通りはまったく無かったが、運転に不慣れな松山には多少、ヒヤリとする体験だった。


――まあ、万が一のことがあっても、小栗の車だし。


 割り切った気持ちが緊張を和らげてくれたのか、無事に再びバイクを発見し、その近くの小道に車を止めることができた。


 路肩に車を止めると、松山はハザードランプを点けて、車を降りた。


 小栗は車の中からその様子を眺めていた。


 見ると、小栗の言った通り、道路脇に見覚えのある原付が落ちていた。


 藤原が愛用していた、ヤマハのビーノだった。


 道路を外れ、畑の土のうえに横倒しに放置されている。


 そしてその先の畑の暗闇に目を凝らすと、倒れている人影を発見した。


 それは一瞬、鹿の死骸のように見えた。


 しかし近づいてみると、仰向けに寝転んでいる藤原だった。


 松山の勘は当たった。



        ◇



「おーい、藤原、何してんだ?」松山は言った。異様な情景ではあったが、不思議と高揚感は感じなかった。


 返事はなかった。藤原はぶ厚いダウンジャケットを着て、仰向けに寝転んでいる。その傍らには藤原のバイクのヘルメットが転がっている。


「おい」松山は藤原に近づき、再び声を掛けた。


 藤原は反応して、上体を起こした。


「あれ……。松山?」藤原は不思議そうに言った。


「何してんの?」松山は面倒になりながら言った。


「ええと、死んでた……」藤原はそう言うと、小さく笑った。



        ◇



「ああ、そう――。お疲れさまです」松山は言った。


「ねえ、それより見てみて、星がキレイだぜ?」藤原は仰向けのまま空を指差した。


 藤原の頭の中は、松山に連絡をよこした時と変わっていないようだった。


 どこかが変だ。


 松山は仕方なく、言われた通りに空を見上げた。確かに、星がよく見える。


 冬に差し掛かった、透明な夜空だった。


 周りに明かりもなく、空がくっきりと見える。


――それにしても、星を見たくてわざわざこんな場所に転がっているわけでもあるまい。



        ◇



 星を眺めていると、松山の背中に寒気が走った。身体の周囲が冷気の塊に包まれているのを感じた。


「こんな所にいて、寒くないのか?」松山は言った。


「おれは別に。慣れた」藤原は言った。


 確かに、藤原の着ているダウンジャケットは暖かそうだった。


 松山は車の方を振り返り、藤原を置いて歩き出した。


 車の中を覗くと、小栗が助手席でうずくまり、寒そうに震えていた。


「松山さん、後ろの席からブランケット取ってもらっていいですか?」小栗は震えた声で言った。


 松山は、自分の車なんだからエンジン掛けて暖房をつければいいのに、と小栗に対して思ったが、エンジンを切って車の鍵をポケットにしまったのは、先ほどまで運転していた松山だった。


 松山は再び車のエンジンを掛けた。同時に車内の暖房もついた。


「おぉ……」小栗は安心したように息を吐いた。


 自分で取ればいいだろ、と思いながら、松山は後部座席のドアを開け、畳まれたブランケットを見つけた。


 2枚あるうちの1枚を小栗に渡した。そしてもう1枚に松山がくるまった。


「ああ、一応それ彼女用なんですけど……」小栗は震えながら言った。


 松山はその言葉を無視してドアを閉め、再び藤原のもとに歩いた。



        ◇



「でさ、藤原、なんでこんな所にいるわけ?」ブランケットに身を包んだ松山は、藤原に聞いた。


「おれも分かんない」藤原は言った。


「分かんない……」松山は言った。


「ただ、目を閉じたまま、バイクでどこまで走って行けるか、やってみただけ」藤原は説明した。


「そして」


「気づいたらここにいた」藤原は息を全て吐き出すような、長いため息をついた。


 松山もため息をついた。息がうっすらと白くなっているのが見えた。



        ◇



 思い返してみると確かに松山は、ここ最近、藤原の調子がどこか変化していたことに気づいてはいた。


 しかし、松山はそこにいちいち踏み込むような真似はしなかった。


 友人として、その変化に興味が無かったわけではない。


 ただ松山の性格は、他人からの干渉を嫌い、また自身もそうならないように振る舞っているだけだった。


――おれは臨床の心理カウンセラーでもなければ、カウンセラー気取りの友人でもない。


 共感されることは稀だったが『踏み込まない優しさ』をモットーに松山は日々を過ごしていた。


 それに、藤原に関しては、放っておいても自然と誰からもよくしてもらうことを知っていた。


 松山が知る限り、藤原はいままで友人になってきた人間の中で、圧倒的に容姿がよかったからだ。


――こんな男が順風満帆じゃないわけがない。


 松山はそう思っていた。


 藤原は、道ですれ違っただけで誰かに明るい夢を見させ、立ち寄ったファミレスやカフェやコンビニの店員を笑顔にした。性別を問わず藤原を前にすると、人々の表情は優しくほぐれた。


 藤原を見かけた女子の集団は、肩をつつきあいながら藤原の存在を共有し、小さく黄色い声を上げた。


 その様を見届けた松山は、世の中の広さと、社会の前向きな明るさを知った。


 くっきりと優しさを刻み込んだような藤原の二重瞼は、本人曰く、小学3年生のときにインフルエンザで高熱を出して以来、二重に変化したのだそうだ。それまでは一重瞼だったらしい。


 藤原は性格も良かった。


 生まれたときから周囲の人たちに認められてきた人間らしく、心の余地があることを前提に話をし、相手を安心させた。相手との適切な距離を保ちながら、相手の言葉を受け入れる。押し付けがましいところもなく、自分の領分を広く主張するようなこともなかった。


 さらに、美形な彼女もいた。


 藤原に負けず劣らず容姿端麗で、頭も良かった。


 ついこの間まで、海外に留学しており、先月には帰ってきたはずだった。



        ◇



「藤原、こんな所にいて、彼女さん心配してない?」松山は聞いた。


「え?」藤原は星とその周囲の暗闇を眺めていた。


「彼女さん、帰ってきたんだろ?」松山は続けた。


「ああ……」藤原は力なく言った。ため息の中に、分かりやすいくらい苦悩の色が見えた。


 松山は、どうやら余計なことを聞いてしまったようだった。



        ◇



「まあ……。とりあえず、帰ろうぜ?」松山は提案した。


 藤原は真っ暗な空間を見つめたまま黙っていた。


 松山は黙って藤原が動き出すのを待った。早いとこ帰りたい。


「理紗ちゃん、帰ってきてくれたんだけどさ……」藤原は口を開いた。


 松山は暗闇の中で頷きながら、その場で軽く足踏みをした。


 藤原は押し黙ったまま、その場をピクリとも動かなかった。


 何かをじっくりと判断するような、長い沈黙だった。


「そうだな……」藤原は独り言のように話を続けた。「松山にはさ、言おうと思う……」



        ◇



 長い一人語りが始まりそうな気がした。


 松山は一瞬だけ車のほうを振り返り、それから再び藤原を見た。


「そりゃあ嬉しかったよ」藤原は続けた。「一年もの間、おれたち離ればなれでさ。留学先で学ぶことに専念したいってことで、連絡も定期的にするくらいだったし。それでも、ちゃんと帰ってきてくれた」


 松山は藤原の様子を伺いながら、静かに頷いた。


――帰ってこなければ、それは留学ではないんじゃないか? と一瞬思ったが、松山は黙って続きを待った。


「理紗ちゃん、ずいぶんと楽しんできたみたいだし」


「それはよかったじゃん」松山は同意した。もちろん、他に言いようもない。


「留学を通して、色んなことが学べて、友達もたくさんできたみたい。性格も前より、どこか明るくて潑剌としててさ。でも――」


――でも?


「でも、なんだろう。うまく言えないんだけどさ……」藤原は口ごもった。それから先ほどと同じ、苦悩を感じさせるため息をついた。


 松山は待った。その間に、暇にまかせて自分を包んでいるブランケットの柔らかな肌触りを指先で何度も確認していた。


「その、自分が理紗ちゃんに置いていかれたようにも感じて。理紗ちゃんが色んな事を学んでいる間、自分はのんびりしていただけだったな、って思ったり」


「どうだろう。それぐらい、周りの誰かが留学を経験すれば当たり前のことなんじゃない?」松山は明るく言った。「別に、留学先で浮気されていたわけでもあるまいし――」


 その一瞬、二人の間にピタリと沈黙が降りた。


「うーん」藤原は沈黙を破るように唸った。その声音だけで、心の全てを松山に伝えるのには十分だった。


 松山は戦慄した。それは寒さとは違う震えだった。喉が冷気にさらされ、一瞬で乾いた。


 どうやら不用意に核心をついてしまったようだった。


 いつもは氷の上を割れないようにスイスイと進めるのに、今日はやけに氷を踏み抜きまくっている。



        ◇



「まあ、あくまでも大げさな例えだぜ?――」松山は自分の発言をフォローするように言った。


 藤原は松山の言葉を遮るように、何度も首を横に振った。


「いや、松山には、正直に言おうと思う」藤原は再び宣言して、松山に顔を向けた。


「おお、そうか」松山は逃げようもなく素直に頷いた。さっきからそのつもりなんだけど。


「おれも本人から直接聞いたわけじゃない。でも、たぶんだけど、理紗ちゃん、留学先で男と寝まくってたみたい」藤原は言った。


「ふうん」松山は小さく相槌をうった。


――自分を見ながらそんな事を言われても困る、と松山は思った。



        ◇



 ずっと仰向けだった藤原は上半身を起こして、地面に両脚を伸ばしながら座った。


 それからダウンジャケット軽く叩いて、服についていた土を落とした。


 松山は目を離した藤原のかわりに星空を眺めた。星は静かに瞬いている。


「理紗ちゃんが帰ってきてから、もちろん、すぐにおれたちは会ったわけ。理紗ちゃんすごく元気そうでさ、おれも嬉しかったよ。それから、留学先の話を一通り聞かせてもらって。それは本当によかったね、なんて言って。おれの部屋に来たときも、ここに来るの久しぶり! なんて言ってくれてさ」藤原は一度ため息をつき、それから松山のほうに向き直った。


 松山は藤原を見ながら、静かに聞いていた。


「それでさ、おれはあんまりこういう話は人にはしたことないんだけど、久しぶりに2人でいい感じの雰囲気になってさ……。まあ、分かるでしょ?」


「うん」松山は相槌をうった。


「一年以上離ればなれだったからさ、そりゃあね。それから軽く抱き合ってキスしたところでさ、なんと言うか、ベルトって片手で手際よく外せるんだね。おれがベッドで仰向けになったと思ったら、もうパンツも脱がされてさ」


 松山はなんて返事をしていいか分からず、ただ黙って聞いていた。


「あれ、自分の彼女ってこんな感じだったっけ? って思ってもさ、もしかしたら自分を驚かそうと思って、わざとやってるのかな、っていう風にも少しくらいは思うわけじゃん。久しぶりだから、お互い距離感も忘れているだろうし――」


 その時、藤原の恋人である理紗ちゃんは、藤原の左右の骨盤の出っ張りに軽くキスしたかと思うと、そのまま流れるように股間にも熱烈なキスをしまくったという。


 藤原は説明しながら、自分でキスされた左右の骨盤の箇所を指差した。


 松山は、自分が一体何を聞かされているのか、頭の中で自問自答した。


「ああ、ごめんね……変な話で」藤原は松山が一言も話さないことに気づいて言った。


「あ、いや、それで――?」松山は続きを促した。ここで話を中断されても困る。


「それで、でも、おれは覚えてるわけ。理紗ちゃんってこういうことする人じゃなかったよなって。それも、ふざけて笑いながらってよりは、真剣な表情でだぜ? おれのちんこを、こう、勢い良く口で咥えて。分かるでしょ? AV女優みたいにさ……」


「うん、わかる」松山は頷いた。藤原に改めて説明されるつもりはない。だいたい分かる。


「そりゃあ、おれだって嬉しくは思ったよ。一年ぶりに自分が彼女にこんなに求められるなんて、って思えたし。でもさ、おれの知っていた理紗ちゃんは、そんなサービス精神旺盛みたいなことは、あんまりしない人だったし、なんと言うか……」藤原は話を中断した。


「なるほどね……」松山は少しずつ藤原の事情を理解してきた。



        ◇


 

 藤原は、一気に話を進めたかと思うと、急に言葉を詰まらせた。それから自分を落ち着かせるように深いため息をついた。順を追って話しながらも、頭の中はまだ情景を目の前にして混乱しているようだった。


 松山は何かを言おうと思ったが、すぐには思いつかなかった。


 一年ぶりに再開した恋人が立派に予想外の変化を遂げてきたのなら、それは普通に歓迎すべきことでもないのか……? どうなんだろう? 自分には分からない。


「どうだろう、たまたま偶然ってこともないわけ? 彼女さんだって、久しぶりに藤原に会って緊張していたかもしれないだろ?」松山は言った。「わたしのことを忘れちゃってないかな、とか、向こうで心配していたかもしれないし。なんと言っても、自覚があるか知らないけど、お前って人よりモテるわけだし……」


 松山は話を聞きながら、藤原自身が何か見当違いな思い込みをしているようにも思えてきた。


 藤原は俯きながら沈思黙考した後、再び松山を見返した。


「いや、理紗ちゃんには、藤原君は変わらないね、って言われたよ」藤原は言った。


「なるほどね……」松山は言った。



        ◇



「おれもさ、最初だけだと思ったんだけど、その後また同じことがあってさ――」藤原は少し落ち着いたのか、話を続けた。


 松山は、これは遠回しに色恋自慢をされているだけでは? と疑問に思ったが、藤原の声に含まれている悲痛さを受け取って、仕方なく耳を傾けた。


 空気は冷たかったが、両肩にかけたブランケットが自分の体温を優しく保持してくれているのが頼もしかった。


「たぶん、理紗ちゃんの中で、そういう一連の流れができあがっているみたいでさ。この前会ったときにも、同じようにさ……まるで誰かに教わったみたいに」藤原はそう言いながら、気持ちが落ち込んでいくようだった。


「でも、そんなの藤原が素直に喜べばいいだけなんじゃないの?」松山は言った。それ以外の励ましを特に思いつかなかったが、あくまで留学先での事情には踏み込まないように細心の注意を払った。


「おれも、当然、嬉しいとは思ったけどさ。なのに、嬉しさと気持ちよさと悲しさが、同時に押し寄せてきてさ、なんだか気持ちがぐちゃぐちゃってなってさ、泣けてくるんだよ」


 松山は、藤原が恋人の頭を優しく撫でながらも、心中穏やかではない状況を想像した。


 その結果、バイクで飛び出して、寒くて真っ暗な夜に、やけくそになって土のうえを転がりまくったすえに、星空を眺めている。


 松山は思った。


――気づかなかったな。おれも案外、コイツの外見に気を取られてかもしれない。これまでは藤原のことを自分と同じ平和主義的な人間としか思っていなかったけど、もしかして藤原って、魅力的で面白い奴なんじゃないか?


「ふああ、はあ……」藤原は、悶えているような情けない声でため息をついた。それから星空を仰ぎ見た。そこだけ見るとアウトドアを楽しんでいる人のようで、様になっている。


 松山の興味は自然と大きくなった。



        ◇



「それで、彼女さんは今、家にいるんじゃないの?」松山は尋ねた。2人はたしか、一緒に住んでいたはずだった。


 藤原は首を振った。


「いや、久しぶりに実家に顔を出すって言って、いまは実家に帰ってるよ」藤原は言った。


「そうなんだ」松山は納得した。


「なんだか松山と同じアパートに住んでたときが懐かしいよ」藤原は言った。


 松山と藤原は入学当初、もともと同じアパートに住んでおり、藤原が気さくに話しかけたことで、ちょくちょく互いの部屋に招き入れて遊ぶ中になった。そのうち、藤原が彼女と一緒に住んだほうが生活費が得だということで、藤原はそのアパートから引っ越すことになった。


「懐かしいって言っても、去年だし、おれはまだ、そこに普通に住んでるんだけど」松山は言った。


「なんだか、色んなものが遠くに感じるな」藤原はしみじみと言った。



        ◇



「で、彼女さんに直接聞いたわけではないんだろ? 色々と具体的なことをさ」松山は質問を続けた。


 この際、全部話してもらったほうが藤原の心も軽くなるだろうと考えた。


「うん聞いてない。おれ、相手が理紗ちゃんでも、あんまり根掘り葉掘り問い詰めて踏み込むのって好きじゃなくてさ。分かるでしょ?」藤原は言った。


「ああ、それは分かる」松山は頷いた。松山が藤原の性格に第一に共感してきたことと言えば、まさにその点にあった。


――おれも藤原も、人の領分に踏み込むことを良しとしない。藤原の場合は、優しさから、おれの場合は面倒くさいっていう理由が大きいけど、まあ、似たようなもんだ。


「でも、おれは理紗ちゃんとずっと一緒にいたから分かるんだよ。あんまり言うと、あれだけど、おれ理紗ちゃんと寝るのが好きだったわけよ。ぜんぜん、自慢とかじゃないぜ?」藤原は笑顔で松山のことを見た。


 藤原も打ち明けながら、少し余裕が出てきたみたいだった。


「いつも静かに抱き合ってさ。ずっとこのままで居たいな、なんて思いながら」藤原は懐かしむように言った。


 そこから、そんなに変わったのか? と松山は思った。


「理紗ちゃんは留学して、色んな事を学んで、もしかすれば、常識みたいなものも大きく変わったのかもしれない。でも、理紗ちゃんは言ってたんだ。『やっとどこか、自分らしく生きていくことができるようになった気がする』って。確かに、前までよりハツラツとしているし、明るくなったしさ、色んなことが楽しそうなんだよね」


「なるほどね」松山は言った。


 そこだけ聞くと普通に前向きな話にしか聞こえない。


「まあでも、なんと言うか、人って生きていれば、周りの影響受けて変わっていくもんじゃないの?」松山は励ますように言った。


「普通に考えたら、そりゃそうだよな……」藤原は頷いたものの、どこか悲しげだった。誰かに泣けと命令されたら、そのまま泣きそうにも見える。


 松山はそれを見守った。


「おれも、それは何よりも嬉しいよ。自分の彼女が英語もペラペラ話せるようになって。理紗ちゃんが帰ってきてから一緒に映画も見たんだけどさ、色んな事を説明してくれて、おれだって楽しい気持ちになったし。すごく尊敬する気持ちにもなった。でも、だからこそ、ベッドの上であんなにアグレッシブに動くようになったことが、うまく頭の中で繋がらなくて、申し訳なくなってくるんだ」藤原は困り顔をした。


――さっきからずっと、藤原の言葉の中に引っかかるものがある。アグレッシブ?


「こういうのって彼氏としてはさ、何だって喜んで受け入れるべきなんだろ? なのにおれは、色んな事を考えちゃって……」


「藤原、お前に聞くのも悪いけどさ、もしかしてだけど、やってる時の声って――?」松山は自分の直感と興味にまかせて聞いてみた。


「オーイエー!」藤原はすかさず流暢な英語で答えた。


「まじか!」松山は思わず言った。喘ぎ声まで?


 松山は周囲の暗闇を眺めた。


 そして藤原がここまで狼狽えている理由を理解した。藤原が直面している情景を、やっと思い描くことができた。


――自分だって、そんな状況に置かれたら、相手にどう声を掛けたらいいのか分からなくなるだろう。


 松山は思った。


        ◇



 それにしても、この藤原という奴はそんな恋人の変化を、無視することなく、怒ることもなく、笑うことなく正面から受け止めようとしていたらしい……。


 松山はここにきて改めて、かつてアパートの隣人だった友人の懐の深さを思い知った。


 そして、この友人が、優し過ぎると言ってもいいくらいの、けっこうな変わり者だったという新事実を発見するにも至った。


「藤原、お前……」松山は驚きながら言った。



        ◇



 藤原は下を向いて、急に、泣いているのか笑っているのか分からない声を出した。


 松山はぎょっとしたまま黙った。励ましの言葉を掛けようと思ったが、すぐには思いつかなかった。


「あーあ……」藤原は泣き終わったのか、あるいは笑い終わったのか、ため息のように呟いた。


「まあ、人って変わっていくもんだよ――」松山は再び言った。


「変わり過ぎだよ……」藤原は松山の言葉を遮るように言った。藤原も自身の状況に呆れているようだった。


「そうだな」松山は同意した。


 藤原には申し訳なかったが、松山は今という時間を楽しく感じていた。


 2人はしばらく黙った。


 さっきから意味もなく星ばっかり眺めている。



        ◇



「理紗ちゃん、きっともう、おれのもとには戻ってこないと思う……」藤原はボソリと言った。「帰国してから、義務的におれと会ってくれたんだろうけど、心はもう別の場所にあるんだと思う」


「そういうことこそ、本人にちゃんと聞かないといけなんじゃないのかな」松山はフォローした。そこは確実に藤原の思い込みだと言えそうだった。


 藤原は頷いた。


「今度、ちゃんと聞いてみるよ」藤原は言った。


 松山はあくびをした。


「さすがに、そろそろ帰ろうぜ? ここは寒すぎる」松山は言った。


 最初から藤原に言いたいことはそれだけだった。


「うん、そうだね」藤原は同意した。


「じゃ、行こうぜ」松山は歩き出そうとした。


 その時、藤原が背後からうめくように悲痛な声をあげた。


「松山、悪い、脚が痛くて立てないかも……」藤原は言った。それから立ち上がろうとしつつ立てない素振りをした。


「マジで言ってる?」松山は振り返って言った。


「たぶん。まじで」藤原は言った。



        ◇



 松山は一度、藤原を置いて車に向かった。


 助手席を覗き込むと、小栗が熟睡している。腕組みをしながら眠るその表情は、真剣に人生の深みと向き合っている人間のように見える。


 松山は助手席のドアを開け、小栗をゆすって起こした。


 小栗は不服そうに唸った後に、目を覚ました。


「悪いけど、ちょっと運ぶの手伝ってくれ」松山は言った。


 小栗は返事の代わりに眠そうな呻き声を出しながら、素直に車から降りた。



        ◇



 どうやら藤原は本当に脚が自由に動かないらしく、松山と小栗は藤原の身体を両脇から抱えるように起こした。


 土のうえに寝そべっていた藤原からは、青っぽい土の匂いがした。


 そのまま半ば引きずるようにして、なんとか車の後部座席に寝かせた。


 その瞬間、藤原の土まみれの服に気がついた小栗が「あっ」と小さく声を発したが、それ以上は何も言わなかった。


 松山は再び運転席に乗り込み、小栗のアパートを目指した。



        ◇



「ほんとに、あそこに人が居たんですね……」小栗は感心したように言った。声はまだ眠そうだった。


「うん」松山は言った。


「えっと、松山さんの友達っすか?」小栗はまっ暗闇にいた藤原のことが気になるようだった。


「そう。松山のアパートの隣の部屋に住んでいました」寝そべるような姿勢の藤原が後部座席から答えた。


「へえー、なんか青春っすね」小栗は感心したように言った。


「青春か?」松山は言った。


「何となくっすよ」小栗は言った。



        ◇



 小栗のアパートに到着して、松山たちは車を降りた。


 藤原を下ろしたところ、かろうじて立てるが、痛みで長距離を歩けないことが発覚した。


「何だか頼んでばっかで申し訳ないけど、今夜だけ藤原のこと泊めてもらえないかな?」松山は小栗に言った。「明日迎えに来るから」


「ええと、あんま寝る場所もないですけど、いいですよ」小栗は快く了承した。


「いやあ、ホントお手数掛けてすみません」藤原は2人に言った。



        ◇



 小栗と藤原が部屋に入っていくのを見届けてから、松山は自分の部屋に向けて歩いた。


 時刻を確認すると、午後10時になるところだった。


 まだ飲み会に合流できそうでもあったが、松山はそのまま帰宅することにした。


 これ以上誰かの介抱をするのは御免だった。



        ◇



 翌朝、目覚めてすぐに松山は小栗の家に藤原を迎えに行った。


 部屋に入ると、2人は楽しそうに朝食を食べていた。


 小栗がトーストを焼いたらしく、バターの溶ける香ばしい匂いが部屋に充満していた。


「松山さんもどうぞ」小栗はハムを挟んだサンドイッチを勧めた。


 藤原は柔らかい大きなクッションに寄りかかり、居心地よさそうにくつろいでいた。


「松山も食べてみな、美味しいよ」朝の挨拶代わりに片手をあげながら、藤原もサンドイッチを勧めた。


 松山はひとつもらって食べたところ、確かに美味しかった。パンの内側にマスタードが塗られているのか、つんとした酸味がハムの味わいにピタリと合っていた。


「で、藤原は大丈夫そう?」松山はサンドイッチを飲み込んで言った。


「なんか、ダメっぽいですよ」小栗が藤原の代わりに答えた。


 松山が藤原のほうを見やると、藤原は裾をまくって足首を見せた。


 ぱっと見て分かるくらいに、両足首がぽっこりと腫れていた。


「痛くないのか?」松山は平然としている藤原に聞いた。


「いや、けっこう痛むよ」藤原は答えた。



        ◇



 結局松山たちは、最寄りの整形外科を探して、藤原を連れて行くことになった。


 しかし、近所に空いている病院はなく、3人は小栗の車で郊外にある大きな整形外科に行くことになった。


「なんだか、小栗と車に頼りっぱなしだよな……」松山は、フロントグラス越しに巨大な建物を眺めながら言った。


 病院内は混み合っていたため、2人は小栗の車の中で待機していた。


「いや全然構いませんよ。おれも飲み会の次の日に、こんな健康でいられるなんて初めてかもしれないっすから」小栗は言った。


「なるほど……」松山はいつもの小栗を思い出して納得した。「でもまあ、こっちはすごい助かったし、今度、軽く飯でもビールでもおごらせてくれ」


「おお、いいっすね。でも、おれ最近、ウイスキーにはまりだしてるんですよね。違いの分かる人間になりたくて」小栗はそう言って笑った。


「あっそうなの。まあ、なんだっていいけどさ」松山は小栗の方を見た。さっきのサンドイッチといい、松山の知らないところに小栗のこだわりがあるんだということが分かってきた。


「それにしても、藤原さん、大変そうですよね」小栗は心配そうに言った。


「ああ、昨日のこと聞いた?」松山は朝の2人の和気藹々としていた様子を思い出した。


「いや、昨日のことはあんまり聞かなかったですね。ただ、藤原さんの話を色々聞きまして……。珍しいですよね、あんなにイケメンな人って」小栗は説明した。


「まあ、そうだよな」松山は同意した。


「上に2人お姉さんがいるそうで、藤原さんは3人目の末っ子なんですってね」


「そんな身の上話まで聞いたわけね」松山は笑った。一晩でずいぶんと打ち解けたものだ。確かに、松山も以前聞いたことがある。藤原のお姉さんたちもモデル並に美人で、地元では美人姉弟として知られていたとか。


「で、聞いたんですよ。そんなにカッコよければ、生きてて良いこと尽くしなんじゃないかって。そしたら、そうでもないよって」


「へえ、藤原にストレート聞いたわけね」小栗と藤原は色んな事を、昨晩から今朝にかけて話し込んだらしい。藤原もちょうど話し相手が欲しかっただろうから、良かったのかもしれない。


「いやあ、でも、自分も藤原さんの話を聞いてて、そうだよな、思いましたよ」小栗は言った。「普通に考えて、自分が好きにもならないような相手から、しょっちゅう見つめられて熱烈にアプローチされるって、けっこうキツいだろうなって」


 松山は頷いた。


「『おれは公共物じゃないのに』って藤原さん言ってて、少し笑っちゃいましたけど」小栗はニッコリしながら言った。「そのくせ、自分が好きになった相手からも必ず好きになってもらえるかは分からないし」


「でも、おれたちだって、こっちが望んでもいないようなことを誰かに言いつけられたり、要求されたり、あんまり変わらない部分もあるって思うけどな」松山はそう言いながら、昨日の再提出のレポートを思い出した。


「ああそれ、藤原さんも昨日、前に松山さんからそう言われて、すごい納得したって言ってました」


「あれ? 藤原に言ったことあるっけ?」松山の記憶には無かった。


 その時、藤原から連絡が入った。


――結構、時間掛かりそうだから、一旦帰ってもらっていいから。足首が骨折していて、あと、右足の脛にも小さくヒビが入っているって。


 まじか。


「骨折してたってさ」松山は小栗に伝えた。


「え? でも歩いてましたよね」小栗は不思議そうに言った。


「たしかに」松山は言った。


 そう言いながら、松山は藤原の原付のことを思い出した。


 原付は昨日から、畑のど真ん中に放置したままだった。


 ちょうど時間の空いた松山と小栗は、再び事故現場を目指した。



        ◇



 現場に到着すると、昨晩と同じように車を停め、松山だけが助手席から降りた。


 原付は同じ姿勢で畑のうえに横たわっていた。


 そしてその近くに、それを眺めている老人の姿があった。


 その爺さんは、悲しげな表情で藤原の原付を見つめていた。


 松山は老人に近づいて挨拶をした。


「すみません、その原付――」


 松山の声に気が付き、老人は振り返った。


「おお、生きてたか」


 老人は嬉しそうに言った。


「ああ、いやあ、僕の友人が昨晩ここで転びまして」松山は言った。


「おお……そうか」老人は頷いた。



        ◇



「いやあ、君の友人が――ね」老人は言った。


「あの、ここの畑の持ち主の方ですか?」松山は聞いた。


 老人は頷いた。


「おお、そうだとも。でもねえ、あんまり事故が多くて、ここにはずっと何も植えてないからね」老人はこの時を待ち構えていたかのように、事情を説明し始めた。


 老人の話によると、もともとここは理由も分からずに道路から脱落する車が多い場所だそうだった。


 急なカーブがあるわけでも、運転手に不親切な傾斜があるわけでもない。ただの見通しのよい真っ直ぐな道路だ。それにも関わらず昔からこの場所で事故を起こす車が後を絶たなかったとのこと。


 もちろん、警察の交通事故の記録にはこの場所が何度も登場し、かつては落下防止のためにガードレールが設置されたそうだった。


 その後しばらくして、ガードレールに衝突した車が跳ね返って、対向車にぶつかり、さらに後ろから来た車も玉突きでぶつかるという、重大事故が発生した。


 その事故以来、ぐにゃりと曲がったガードレールは撤去され、再び何もない道路に戻ったそうだ。


「そんなわけで、こちらとしても、どうしようもないから、そこには何も植えなくなったわけ」老人は淀みなく説明しながらも、少し楽しそうに見える。誰かに向けてこの話をするのが好きなのかもしれない。


 松山は頷いた。


「そんでもって、自転車やらバイクやらもしょっちゅう落っこちてくるから、土だけはフカフカに耕しておいているんだけどね。クッションになればいいと思って。友人も無事だったろう?」老人は松山のほうを向いた。


「そうですね。おかげさまで、死なずに済みました」松山は答えた。むしろ藤原は土が柔らかいせいで両足がめり込み、両足首を持っていかれたようにも思ったが、それは言わなかった。


 老人は満足気に頷いた。


「いやあ、本当にご迷惑をお掛けしました。バイクは持って帰りますので」松山はそう言って藤原の原付を起こして、道路まで運ぼうとした。


 土が柔らかいせいで、移動には苦戦したが、老人がすぐに近くに置いてあった板切れを持ってきてタイヤの下に敷いてくれた。さらに老人は原付を後ろから押して手伝ってくれた。まるで巨大なカボチャを転がすような重労働だったが、板切れを駆使し、無事に道路脇に原付を持ってくることができた。


 老人の手慣れた様子を見る限り、何度も同じような経験をしているようだった。


 車体の状態を確認してみたが、よほど丈夫に作られているのか、目立った故障は見当たらなかった。地面と接触したサイドミラーが違う方向を向いているくらいだ。松山はそのミラーに手を掛けると、ぐいっと力まかせに元の向きに戻した。


 道路からは結構な勢いで吹っ飛んでいたはずだが、土の柔らかさのおかげか、タイヤが歪むこともなく、奇跡的に灯火類も無事だった。


 エンジンも問題なく始動し、小気味好い音を立てた。


「すごいですね。バイクは無傷みたいです」松山は老人を振り返りながら言った。


 松山の後ろから原付を眺めていた老人は、収穫物に満足した農家のように誇らしげに微笑んでいた。


 松山は一度畑に戻り、同じく放置されていた藤原のヘルメットも回収した。



        ◇



 車を覗くと、小栗は運転席のシートを倒して眠っていた。昨晩は藤原と話し込んであまり眠れていなかったのかもしれない。


 松山は小栗を起こして、自分は原付に乗って帰ることを伝えた。


 急に起こされた小栗は一瞬、自分がどこに居るのかを失念していたような顔をしたが、松山の言葉に頷いて了承した。


 それから松山と小栗は一度、小栗のアパートを目指して戻ることにした。


 松山が畑のほうを振り返ると、老人はすでに遠くに立ち去っていた。



        ◇



 その日はその後、満身創痍だった藤原を病院から連れ戻し、部屋に送り届けた。ついでに原付も松山が乗りながら、藤原のアパートに送り届けた。


 藤原の災難に付き合わされたにも関わらず、原付は規則的な排気音を響かせながら、文句も言わずに着実に走り続けた。


 おかげで松山はその原付が気に入り、自分の手元に置いておきたくなった。


「いやあ、2人ともほんとにごめんね」藤原は、松山と小栗のほうを振り向いて言った。


 藤原の姿は、パッと見ると、スタントに挑戦して失敗した若手俳優のようにも見える。


「彼女さんにも報告するんだろ?」松山は気になって聞いた。


「うん、ちゃんと正直に言おうと思う」藤原は答えた。


「またなんかあったら、呼んでくださいね、車出しますんで」小栗は言った。


「うん、ありがとう」藤原は言った。



        ◇



 それから程なくして藤原は、彼自身が予言していた通りに、彼女から別れを告げられたそうだった。


 それを聞かされた松山は、特に反応はしなかった。


――まあ、本人同士が納得しているなら、そういうもんなんだろう。


 藤原はうすうす感づいてはいたものの、正式に別れを告げられたことで改めてショックを受けたようで、それなりに落ち込んでいたようだった。


 松山としては、再び夜中に原付で飛び出しさえしなければ、それでよかった。


 はじめのうちは松山に会うたびに、これみよがしにため息をついていたが、その回数も、怪我の回復とともに減っていった。


「松山のアパートに行っていい?」


 ある日、藤原は聞いてきた。


「別にいいけどさ、そういえば、彼女さんはどうなったわけ?」松山はストレートに聞いた。


「近々荷物をまとめて、新しいところに引っ越す」藤原は説明した。


「そりゃそうだよな」松山は納得した。


「理紗ちゃんが自分らしくいるためには、おれは必要ないみたい」藤原はそう言って深いため息をついた。


「まあ、なんとか、気にせずやっていくしかないんじゃないかな?」松山は思いついた励ましを藤原に言った。


「そうなんだろうけどなあ……」藤原は一応、その言葉を受け取ったようだった。



        ◇



 もちろん、モテないはずのない藤原には、すぐに彼女ができたそうだった。


 相手は藤原が治療のために通っていた大きな病院で研修を受けていた女の子だという。


 藤原は相手から連絡先を聞かれ、そのまま付き合うことになったという。


――やっぱりモテるやつは違うんだな。


 松山は藤原の身の回りのスピード感に感心した。


 それから数回会った後に、藤原とその彼女は肉体関係を持ったそうだ。


 その頃には藤原の両足も完治し、元の生活に戻っていた。


 彼女は藤原の服を脱がせると、藤原の身体をベッドに仰向けに寝かせた。それは患者をケアするような手慣れたものだったらしい。それから裸の藤原に上から対面すると、まるでブドウゼリーか何かと勘違いしているかのように、藤原の全身をくまなく啜り始めた。


 リラックスしてその場の流れに身を任せていた藤原は、その快感に抵抗することもできず、思わず身悶えし、今までに出したこともない情けない声をもらした。


 彼女の普段の清楚で大人しい雰囲気とはかけ離れた積極的なアプローチに、藤原は驚嘆しながらも、以前の経験を踏まえて、心はそのまま従うことにしたという。


 藤原はその彼女との出会いから現在に至るまでを、松山に報告した。



        ◇



「だからさ、そんな一部始終をわざわざおれを呼び出してまで説明しなくてもいいわけよ」松山は藤原に抗議した。


「いやあ、なんと言うか、松山には知っておいてもらいたくて――」藤原は釈明した。「松山には、前にもこういう話をしたことあるしさ」


 松山は黙った。それから一つの予感が頭の中をよぎった。


 もしかすると藤原は、いわゆる痴女みたいな相手と巡り合わせるような、そういう星回りにいるのかもしれない――。


 松山は藤原からの報告を聞きながら、そんなことを考えていた。


 もちろん、それが藤原が望んだことであろうと、そうでなかろうと、松山の知ったことではない。


 自分がそこに干渉するつもりも、詳しく踏み込むつもりもない。


 相応に状況を飲み込みつつ、あとは藤原の好きにすればいい。


「なんと言うかさ……、前からうっすら思っていたんだけど、もしかして、変わったのって藤原のほうなんじゃない?」松山は思いついた疑問をそのままぶつけてみた。


「そうなのかな?」藤原はそう言うと、不思議そうに首を傾げた。








おしまい。

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