水血記 ~すいけつき~

アイバ・スイメイ

第1話 【序章】

***約30年前の事である。***

 

「アジェン、何度言ったら分かるのだ」

「申し訳ありません」

 狭い洋室の中に、女性と、老いた男性がいる。2人とも、真っ白な服を着ている。男性は短い白髪で、女性は長い黒髪だ。

 女性は、仁王立におうだちの男性の前にひざまずいている。

「この事は、なんとしてもおきてに従うべきなのだ」

 男性は声を張り上げた。

 この部屋の中は、真っ黒な冷気が立ちこめているかのように、昼白色の照明がどんよりと鈍く光る。だが、部屋の雰囲気は加熱される調理器具みたいな緊張を帯びていた。

「しかし、……これはもはや、この世の人間に任せておける話ではありません」

 女性は顔を上げて、はっきりとそう言った。

「見損なったぞ、アジェン!」

 男性の怒声が飛んだ。 

 アジェンと呼ばれているその女性は素早く頭を下げた。

「お前がこれほど愚か者だったとは。もういい。この件からお前を外す」

「そんな! リーダー、私はただ――」

「お前の言い訳など聞き飽きた。これ以上――」

「――世界をあんなにひどくして放り出した人間どもを許さないと決めているだけです!」

「もうよかろう! 罰を下す。お前のしでかしたこれまでの結果を痛感せざるを得ないようにしてやる」

 リーダーと言われた男性が右手を挙げた。

 突然、アジェンの周りに黒い光が現れ、立ち上がった彼女を呑み込んだ。光は無音でぐるぐると渦を巻き、彼女の姿を隠した。

 言葉にならない悲鳴が部屋の中だけに響いた。

 光が消えた。そこにあの女性の姿は無い。

 あるのは、恐ろしそうな顔つきのけものであった。白い肌に青い毛、真っ黒な瞳の、細いが大きな竜だ。

「その姿で、人間の住まう世界を流離さすらうがいい」

 鋭い声と共に、男性は挙げたままの手を右に払った。と同時に、竜が消えた。

 それからしばらくの間、男性は立ったまま、女性だった竜がいた辺りをじっと見つめていた。

「これで反省してくれれば良いのだが……。あるいは、これが最期の姿になるかもしれないな。魔法使いアジェンよ」

 かなり疲れたような様子で、男性は呟いた。

 部屋の中は、一気に冷たい空気に入れ替わった。それはまるで、先程まで加熱していた調理器具を、氷水を入れた桶に突っ込んだ事を連想させるように。


★★

 辺りは日没後で、薄暗くなっていた。

 湖の岸辺には、イベントを終えて片付けをする大人達が十数人いる。

 ひゅうひゅう、という大きな音が、彼らの頭上からしてきた。

「ん、なんだ? うわっ、みんな逃げろ!」

 男性の大声を聞いて、人々は慌てて湖から離れた。

 空から、得体の知れない巨大な物体が、降ってくる。湖に落ちて、大量の水飛沫みずしぶきが岸に注いだ。

 人々は湖に注目した。

 水煙が消えると、青い影が揺らめいた。

「りゅ、竜だ!」

 そこに居る人々は、1人も動けなくなった。

 竜は、首を持ち上げ、こちらを向いた。

「……アズマオウだ! 襲ってくるぞ!」

「逃げるぞ! 早く、早く!」

 大人達は、転げるように走って、その場からいなくなった。


、、、、、

 この湖は、手亜麻湖てあまこ。別名を、東池あずまいけという。

 この時、空から降ってきた竜を指して誰かが叫んだ〈アズマオウ〉の呼び名は、瞬く間に人間の耳に入っていった。

 竜は、翌日にはもうそこにはいなかった。

 それが、逆に人々の不安感を強めた。「どこにいるのか分からない」「どこからでも襲ってくるのではないか」と。

 そう、この世界に生きる人間の認識では、竜は単なる害獣に過ぎない存在なのだ。


★★

 小さな池に竜は着いた。

 辺りを見ようと水面に頭を出すと。

「キャアー!」

 少女がいて、見つかった。

「どうした」

 少年が走って来た。手に、茶色く細長い筒を持っている。

 少年と竜は、目が合ってしまった。

「先輩、あ、アズマオウに違いないわ!」

 人差し指で竜を示しながら、少女は作られたての竜の呼び名を口にした。

「見えている。この、化け物が!」

 少年は筒=細銃さいじゅうを構え、った。

 それと同時に、池の水が水面より上に持ち上がり、竜の前で壁のようになった。

 銃弾は水の壁に吸い込まれていき、消えた。

「そんな馬鹿な! あいつ、魔法まで使えるのか」

 少年は目を見開き、細銃を落とした。

 細銃に入る弾は、僅か1つだけ。文字通りの一発勝負だ。1度撃ったら、次の弾を入れなければならない。それができないのなら、持っていても意味が無い。

「先輩、逃げましょう!」

 少女の呼びかけでようやく我に返った少年は、少女の腕を掴んで走っていった。

 水の壁が消え、竜は水中へ潜った。


★★ 

 翌日の昼、竜はさらに別の湖に来た。空を飛んできたのである。

 だが、空中にいる間に、人に見つけられた。1人ではない、50人はいる。全員が細銃を手にしていた。 

「いたぞ、アズマオウだ!」

「良くねらえ! 1発も外すな」

 茶色い服を着た集団は銃口を竜に向けた。

「今だ、撃て!」

 号令がかかったその時だ。湖の上で風が渦を巻いて、あっという間に広がったのだ。

 その風に人間達は呑まれ、全て倒された。

 この間に、竜は身をひるがえし、高く飛んで、視界から消えた。

「皆、無事か」

 風が止むと、人々は起き上った。誰も銃を撃てていなかった。

何処どこへ行こうと無駄だ。必ず、我らピアール隊があの怪獣を葬り去る」

 1人が言うと、周りの人も頷いた。


★★

 同じ日の夜中、竜は竹林に囲まれた水辺に辿り着いた。

 人はそこにはいない。

 それを確かめた竜は、着水すると、直ぐに底を目指して泳いだ。

 深く、深く、深く……。


、、、、、

 ここは加沼くわえぬま。この世界で最も深い湖である。

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