▼3-3 鼻声の女神

 ラージャー王子とハルシャ王子の下に妹姫がいるなど、ハルシャは聞いたことも無い。


 いや。


 冷静に思い出してみると、妹がいることをどこかで聞いたことはあった。だが、妹とは一緒に暮らしていないので、存在自体を今の今まですっかり失念していたのだ。


 美しき彼女の正体が自分たちの妹であると知って、ハルシャはインドラ天の雷杵とクベーラ天の棍棒と閻魔の懲杖で同時に殴られたかのように心に衝撃を受けていた。


 彼女に近づきたいと思っていた。正体を聞いてみたら実の妹だった。想定していた以上にハルシャとは近い存在だった。むしろ近すぎるくらいに。


 妹ならば、姫と呼ばれるのも当然だ。だけどどこかの国の姫君ではなく、我が国の姫だとは思わなかった。ならば、ラージャーやハルシャの縁談の相手として宮殿に赴いたのではないということだ。兄と妹では勿論結婚はできない。


 宿命とは冷徹なものだ。始まったと思ったハルシャの気持ちは、何もしないまま、あっさりと終わりを告げてしまった。この熱い気持ちが恋だったのか、そうでないのかすらも確かめる暇すら無かった。


「ハルシャ、分かっていると思うけど、今日は象に乗って操る練習がある。ちゃんと遅れないように練習場に来るんだぞ」


「いや、それは午前中にもう終わりましたし。だから雨で濡れてきたんです」


「なんだ。午前中に行ったのか。たぶん午後から雨は小降りになるぞ。午前か午後かを自由に選べたんだから、午後からの方が良かったのに」


 言うだけ言って兄は、ラージャシュリーに対してさほど興味を持っている様子も無く立ち去った。


 取り残された格好のハルシャ王子は、この後どうするか一瞬だけ迷ってから、妹のラージャシュリーとは初対面であるからには一度挨拶をしておいた方が良いと判断した。


「お初にお目にかかります。俺はプラバーカラ統王の第二王子であるハルシャと申します。あなたは、我が妹のラージャシュリー姫ですよね」


 女性の背後に控える護衛兵士が一瞬緊張したのが窺えた。


 ラージャシュリー本人は手巾で鼻と口を覆ったまま微笑んだ。


「まあ、ハルシャお兄様でしたか。初めてお目にかかります。ラージャシュリーでございます。十三歳ですわ」


 少し鼻声気味の声だった。風邪でもひいているのか。年齢はハルシャよりも一歳下だと判明したが、大人びた気品を纏っている。


「今まで、ラージャーお兄様とハルシャお兄様にお会いしたことが無かったのを、不思議に思っておられるのではありませんか。実はわたくし、草叢に近づいただけで息苦しくなってしまう体質でして、物心つく前からあちこち転地療養を繰り返しておりましたの」


 ハルシャは黙って聞いていた。自分に妹が存在すること自体を今の今まで忘れていたくらいなので、妹がタネシュワール城に居ない理由など考えたこともなかった。


「どうもわたくしの症状は、何かの植物の花粉が原因らしいのです。何の植物であるかは分からないのですが、花粉を吸うと鼻水が出て涙目になって息が苦しくなってしまうのです。四方八方転地療養をしてみた結果、カナウジだけは、その花粉が無いらしく、苦しまずに生活できるということで、カナウジに用意した別荘でずっと暮らしておりました」


 カナウジというと、ガンジス河と支流ジャムナ河の流域にある大平原地帯に栄える古都だ。古名でカーニャクブジャともいう。現在はマウカリ族のグラハヴァルマンという王が君臨している。ここタネシュワールからはガンジス河を随分下った場所になる。


 それに、ハルシャが昨晩見た夢の舞台もまたカナウジだった。やはりあれは、運命の出会いがあるという予知夢だったのだろう。


「ラージャシュリー姫、次の予定がございますので」


「それでは失礼いたしますわ、ハルシャお兄様。またいずれ、ゆっくりお話しいたしましょう」


 槍を持った護衛の兵士に促されて、ラージャシュリーは去って行った。姫が足に付けている化粧水の残り香が、宮殿の廊下に立ち尽くすハルシャの周囲を優しく包む。


「妹、だったのか」


 外見は完全にハルシャの理想を体現した女性であった。それだけに相手が妹と知った時の落胆は大きかった。


 だが、ラージャシュリーとお近付きになりたい気持ちが消えたわけではない。恋人という立場であろうが兄妹という立場であろうが、ラージャシュリーと仲良くしたい、という正直な心情があった。


 世にも美しい妹のラージャシュリーに相応しい兄として、彼女に気に入られるためには、日常の王子としての学習に励まなくては。ハルシャもまた部屋に戻り、この後の象の乗り方の訓練のために準備することとした。


 ふと疑問が湧いた。


 何故、ラージャシュリーは健やかに過ごせることが約束されているカナウジを離れ、ここタネシュワールまで来たのか。現実に、ずっと手巾で鼻を覆ったままだったし、声は鼻声だった。


 大地を潤す恵みの雨は、ラージャーが言っていたように午後には小降りになった。

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