▼3-2 象の背からの眺め

 今更ながらだが、ハルシャは自分の若さゆえの経験の少なさを恨んだ。今まで女性と恋に落ちて交際したことが無いため、女性に対してどう接すれば良いのか、分からない。王族だからこそ、権力を振りかざして奔放に生きることもできるのかもしれないが、逆に王族であり人の上に立ち規範になるべきだからこそ下手なことはできないという制限もある。どちらの方向に向かうかはその人物の人柄次第なのだろうが、兄のラージャーもハルシャも、女遊びに走るには性格が生真面目すぎるのだ。


 ハルシャとしては、兄の姿を見上げて生きて来た分、どうしても背中を追いかけて行っている。ラージャーは品行方正で見た目も涼やかで弓矢や戦闘などの練習でも優れた結果を出している。誰かに比較されて貶されているという事実は無いが、それでも、兄に負けたくないという気持ちが自ずと発生してしまう。


 彼女に関する直接的な情報を得ないままで探るというのは、現実には難しいかもしれない。このままだと単に眠れぬ夜を過ごして輾転反側するばかりなので、もう誰かに聞いてみた方がいいかと心が揺れる。だが、一度自分が決めた方針を一日かそこらの短時間で諦めてあっさり覆してしまうのも自分に負けてしまうようで癪だ。矜恃は必要だが、時に却って自分を苛む重荷になる。


 翌日は、朝から象に乗る練習だった。普段からやっていることで、高い視点から地上を見下ろすのは悪い気分ではない。だが、雨季だけあって昨晩のうちからかなりの雨が降っていた。おかげで暑季のような焼き殺しに来ている暑さは無いが、高い湿度とそこそこの高さがある気温という両翼からの挟み撃ちではある。雨の中で象に乗って行軍しなければならない場合も考慮に入れているため、雨天であっても練習は中止にならない。


 象の首に跨ったハルシャは、宮殿のあるタネシュワールの丘陵を下り、森の方へ向かう。ハルシャの背後に乗っている象使いの講師もハルシャの技量を信頼して、ほとんど口出しすることは無い。象を操るのが上達したのは良いことだが、何の注意も受けないと、今度はハルシャの心中で雑念が雨季の植物のように勢い良く生えてくる。


 勉学や運動を頑張ったからといって、好きな異性のことを完全に忘れ去るのは難しい。これは、男子ならば十四歳前後の時に誰もが悩んだことなのだろうか。


 ふと、森の木立の間から、煙が上がっているのが遠く窺えた。雨の日であるにもかかわらず、何かが勢いよく燃えているのだろう。


 そこに何があるのか確かめに行ってみようか、と一瞬思ったが、かなり距離がありそうだった。無駄な寄り道をしたのでは講師に叱られてしまうだろうから、また機会があったらにしようと心の奥の引き出しに仕舞い込んだ。


 森には凶暴な虎が出現して危険だということで、あまり奥へ入ることは禁止されている。帰りは逆に丘を昇って宮殿に戻る。


 象から降りて、働いてくれた象を労いながら象舎に戻し、餌を与える。というところまで済んで、ようやく象に乗る練習は終了する。雨ですっかり濡れてしまったので、早く部屋に帰って着替えたい。宮殿内なので走ったりはしないが、それでも心持ち大股で歩いて自室へ向かう。つられて護衛の兵士も大股になってしまう。


 そのハルシャの足が止まった。大股のまま三歩ばかり後ろに戻る。通路の角になっている部分の向こうで、聞き覚えのある声の会話が聞こえたのだ。


 角から頭だけを出してその先を窺うと、予想通りの二人がいた。

 穏やかで知的な表情の奥には戦士としての燃える闘争心が宿っている兄のラージャー第一王子と、いつも水色の手巾で鼻から下を覆い隠している気になるあの彼女だ。それぞれの護衛兵は一歩下がった位置で待機していて、兄と彼女が二人で会話している。既にお互い面識があるのだろう、親しげな様子であった。


 もう、今までの作戦とか思惑とか、そういう雑然とした瑣末なことが全て吹き飛んでしまった。敢えて理由を述べるのならば、とどめ得ぬ衝動だった。


「兄上、お疲れ様です」


 大きな元気な声で挨拶を発しながら大股で歩み寄った。二人きりの会話に割り込む気が満々だった。


「ハルシャか。何をやっていたんだ、ずぶ濡れじゃないか。早く部屋に戻って着替えた方がいいぞ。風邪をひくぞ」


「ご心配には及びません。あ、でも俺、雨季になったとはいえ、暑季の疲れがまだ残っているようなので、体力をつけるために乳製品を多目に摂取した方がいいかなと思いまして、食事の時にサルピマンダラを食べ飽きたならば譲ってもらえないかと思っていたのです」


「醍醐か。別に好きでも嫌いでもないから、もし余ったら僕の分も食べていいよ」


 ハルシャは咄嗟にどうでもいい話を持ち出した。が、兄自身は彼女のことをどう考えているのか知りたい気持ちもある。それ以前の話として、彼女が誰であるのかを把握しているのか。


「兄上、こちらの女性は、どなたであるかご存じでしょうか。俺は以前に幾度かお見かけしたことはあるのですが、まだきちんとご挨拶をいたしておりませんので」


 兄の表情は特に大きな変化を見せなかった。


「なんだ。まだ紹介されていなかったのか。彼女はラージャシュリーだよ。僕たち二人の妹の。僕たちに妹がいることは知っているだろう」


「い、いもう、と?」


 全く予想外の単語だった。


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