02. 先輩と「努力化」

「なにを書いているんですか?」


 自分のするべきことができないからといって、先輩が集中しているところにお邪魔するのは気がひけたが、単純に興味があった。


「んー? わたしは、うとうとしているときにおもしろいアイデアが浮かんだから、それを文章にしてまとめているところ」

「じゃあ、誰かから要求されていないもの……ってことですか?」

「そうくるかあ」


 先輩はどこか愉快そうに返事をした。


「なんというかね、これがわたしの努力のしかたなんだよ。わたしはこれを、ある学者の〈差異化〉というキーワードを拝借して、〈努力化〉と読んでいる」

「もしかして、じゃなくて、っていう字ですか?」

「そう。化けるっていうのは、動くってことでもあるでしょ。変化っていうと分かりやすいかな」


 の違い。なるほど――と、先輩の背中に無言で相槌あいづちをうつ。


「わたしの師匠とも言うべきひと……そのひとはイラストレーターの方なんだけど、絵がうまくなるには、努力するだけじゃ意味がないって言ってたんだよ。なにかの配信で」


 どういうことかというと――そう言いながら、先輩は椅子を回してこちらに振り向いた。


「常にベストな努力のをしないといけないっていうこと。目標を決めたら、それを実現するために最適な努力を見つけるのを怠らないこと。ようは、努力の方法を探し続けるってことだね」


 大学生の半分くらいは、「フランス語の研究書を読む」という目標のために、どういう努力のしかたをすればいいのかを、試行錯誤する日々だったのだと、先輩は一例としてあげた。


「わたしは、自分の研究テーマを深化させるためには、どういう努力をするべきなのかと試しているうちに、思いついたことをメモするだけじゃなくて、ひとまとまりの文章にしようっていう気になった。もしかしたら非効率的に見えるかもしれないけれど、効率的なことが必ずしも最適な努力に繋がるとは限らない」


 だから、だれかに要求されているわけでも、用向きがあるわけでもないけれど、時間をかけてでも、アイデアを長い文章にまとめているのだという。


「喋りすぎちゃったね」

「いえっ! すごくためになりました!」


 それは、素直な気持ちだ。普段は飄々ひょうひょうとしている先輩のこうした一面が、ぼくは好きなのだ。


 先輩は、キャスター付きの椅子にまたがったまま、じりじりと近づいてきた。なにかイタズラを考えている顔だ。


「こうすれば、もう話せない……ねっ」


 先輩のラベンダーのネイルが、首筋に少しだけ食い込んで、こそばゆかった。

 そして、ぐっと持ち上げられたぼくの顔に覆い被さってきた、先輩の春に咲く華の蜜より甘い口づけは、くすぐったかった。


「はい、これでわたしの話は終わり。じゃ、図書館に行ってそのまま帰宅するから、古原も帰るんなら、ここを施錠しといて」


 もしこの一連の光景を目撃したひとがいるとしたら、信じられないかもしれないけれど、ぼくたちは付き合っているわけでも、愛を誓い合っているわけでもないのだ。


 ただの先輩と後輩の関係――のはずなのだけれどな。

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