論文が書けないのは先輩が邪魔をするからですってば!

紫鳥コウ

01. マスカットの味と香り

「ふるはらー」

 ぼくの名前を気怠けだるそうに呼びながら、後ろから抱きついてくる紺野岬こんのみさき先輩。


 一瞬にしてぼくの肩越しから一輪の香りのいい華が風に乗って飛んできた――なんて言い換えると、文学的かもしれない。


 今日のコーデは、肩を露出させた、淡い水色の下地に藍色のたてじまの入った半袖のシャツに、それと同じ色と模様の膝下ひざしたまであるスカート。腰まわりをめぐる紺のウエストリボンがぎゅっと前で結んである。


 ウェーブのきいたロングの黒髪が、裸の肩の上にふわりと逢着ほうちゃくして、胸と背中にふたつに分かれて垂れている。


 ぱっちりとした眼に、下の方が少しだけぷっくりとした唇。んだ湖のように、美しくどこか冷たそうな肌。感情が豊かに表現されるその顔は、よろずの言葉より微細なニュアンスを伝えてくる。


 紺野先輩の容姿を説明すると、だいたいこんな感じだろうか。もちろん、ぼくの表現からは、両手から金箔きんぱくがこぼれ落ちていくように、いくつもの魅力が逃れていっている。


「やってるねえ。読む必要のない論文をつかまされるなよー。Abstractを読んでる?」

 アブストラクト。ようは、論文の要約だ。でも、これは――


「これは、ぼくの論文なんです」

「んー、英語で書いてんの? どこに投稿するの?」

「これです」

 ぼくは、机の上に置いてあるジャーナルを指さした。


「へえ、どれどれ」

 先輩はぼくの手からマウスを奪って、一頁ずつさかのぼってざっと読んでいく。


「んーと、This paper aims toのあと。ここは、動詞の原形になるんじゃないの」

「あっ、ほんとですね。ありがとうございます」

「彼ピのためなら、なんのその」

「彼ピって……からかわないでくださいよ」


 ちょっと寝るから2時までに起こして――と言ったきり、イヤホンで耳をふさぎASMRを流しはじめた先輩。


 院生専用の研究室には、いまはふたりきり。後ろに先輩がいる……というだけで、目の前のディスプレイに映し出されているものがすべて、ぼくの考える力と接着しない、ふわふわとした素材に変わってしまう。


 アウトプットは一時めにして、研究書を読み始めたのだが――いつのまにか起きていた先輩が、また背後から抱きついてきて、ぼくの目の前にこぶしをふたつ突き出した。


「どっちか好きな方を選んで」

「……なにが入ってるんです?」

「いま、古原が一番ほしいもの」


 頭が疲れているし、甘いものだったら嬉しい。チョコレートとか。

 ぼくが指さした右手がパッと開かれると、マスカットのあめが顔をだした。しかし先輩は手を引っ込めて、包装を切ると、飴玉を口のなかにふくんでしまった。


「意地悪しないでくださいよ……」


 こういうところが、先輩の嫌なところだ――って、ちょっと、先輩!

 先輩の唇にはさまれたマスカットの飴が、ぼくの口のなかへとゆっくりと運ばれてくる。ざらついた飴の表面が、唇にかすれて、こそばゆい痛みのようなものを感じた。


「さて、わたしもやるかー」

 のびをひとつして、自分の席に戻った先輩は、スリープ状態のパソコンを起動させると、椅子に深く腰をかけた。


 ぼくは、舌の上に乗った飴から染みこんでくるマスカットの味と香りを、ひりひりと感じたまま、まったくフリーズしてしまった。


 開け放たれ窓から、ふわりと春の風が吹いてきて、カーテンを優しく逆上がりさせた。


 先輩は、メロディは聴いたことがあるけれど、楽曲名もバンド名も記憶から出てこない洋楽を口ずさみながら、黙々となにかの文章を書きはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る