第2話 警官と絵描き

 影塚が車で杜若の家に来宅していた為、彼の運転で例の美術館まで赴くことにした。


 例の美術館は、大阪市内にある比較的大きい規模の建築物である。まだ開催中の、杜若が訪れた『日本の名が知られぬ絵画展』の案内ポスターは、まだ表通りに貼られたままだった。

 大々的に宣伝されているこの絵画展のポスターには、例の絵画は載せられていない。


 一体何が目的で、犯人はあの絵を盗んだのだろう? 影塚は「うーん、せやなあ」とはぐらかすような生返事をするばかりで、確信の絵画については何も語らない。

 勿論、車に乗る前に絵画の写真も、説明が記載されたプレートの写真も見せた。だが、このイラストレーターはうんともすんとも言わなかった。


 これがもっと人間の絵だったりすると、何かを言うのだが……。

 杜若は「車内禁煙や」と忠告されたので、只ひたすら煙草の箱をトントンと叩きながら窓の外を見つつ過去の出来事を思い出す。


 それは奈良のとあるカフェでお茶をしていた時、「お前の絵、見せてくれよ」と影塚に問いかけたことがある。すると、小馬鹿にした表情で「落書きでええから、なんか描いて見してくれや」と逆に頼まれた。

 相手は美大にも通ってたことがある奴だ。そんな奴に無理難題を言われても、こちとらガチガチの警官キャリア一筋だった人間なのに、何を思ってそんな事を求めて来るのか。

「ほら、等価交換やろ?」と言って、自身の鞄からA5サイズのノートとペンを差し出してきたが、「意味が分からん」と言い返す。だが、その意思を譲らないと言わんばかりにノートもペンも引っ込めないもんで、杜若の方が折れて仕方なく適当に何か描くことにした。


「……おい、まてまて、待てや! なんやねん、それ?」

 思わず笑いながら突っ込まれた。杜若はかなりむすっとした表情で、利き手と逆の左手で煙草の吸殻を灰皿に押し付けながらも、右手で描く手は止めない。

「歪で悪かったな。実家で飼ってる猫だよ」

 不貞腐れながらそう言ったら「ちゃうて」と、影塚は笑いを止めずに目の前で大きく手を振って否定の意を示した。

「なんも自分が描いてるものを否定したいわけちゃうくて……。なんや、その猫って、凄い造形なんやなって思ただけやで」

「簡潔に言えよ。下手だって」

 影塚はどうにもツボに入ったのか、大変軽快な笑い声を放つばかりだった。ある程度の猫の特徴は捉えているつもりだったが、それをいざ描こうとする行為というのは、存外こんなにも難しいのかと、痛感させられた。


 この行為を生業としているのだから、杜若はなんとも奇妙な感覚になる。

 自分のセンスや感覚で視野に入るモノを、筆やペンで象徴的であれ何であれ表現し、それを商売へと変えるというのは、警察官という世界しか見て来なかった自分にはない視野と世界だった。


 警察官という組織は、センスも何も必要じゃない。直感的な才能は必要というより培われていくものだ。そしてその培った才能に、なんなら石を投げられる職業だ。

 経済面では、それこそ昇進さえすれば多少の安定した地位で居られるが、その道半ばまでの大半は、世間から憮然ぶぜんとした態度を向けられ、罵詈雑言ばりぞうごんの嵐の中で自我を保つことが難しくなる。

 そうしてどんどん自分という存在に酩酊めいていし、辞職していく輩は後を絶たない。


 ある程度の猫の輪郭を描き終え、三毛っぽい柄を線で少し足していく。


 医学業界も万年人不足だと言われるが、そのデモを起こし制するのは我々の役目で、その対策を練るのも、未来に向けた都市計画にまで発展するのだから、正直同じ人手不足であっても、その本質は圧倒的に違うだろう。


 そういえば……記憶に残る程、うちの猫を長らく見ていない気がする。柄を足していって、少しずつペン先の速度が落ちていく。


 それに比べ、芸能界やアーティスト、ネット配信者やインフルエンサー、それこそ影塚のようなイラストレーターを目指す者も、年々右肩上がりに増えているという。

 現代の子は世の汚い部分を自身の眼で見ようとする傾向にない。気が付けばスマホを手に、ニュースをスワイプしては、忘れていく。


 世の中は、きっと自分が思った以上に脆く、儚い情報の海と化しているのだ。


「そら、出来たぞ」

 ぶっきらぼうにノートを回し、影塚の方へと渡すと、「ふーん」と影塚はにやにやとしてノートを見つめている。


 影塚と杜若は相反する存在と捉えられるだろう。

 だが、影塚はその辺の輩と圧倒的に違うのは、こういう情報を深遠な思想として捉えはしないものの、蔑ろにもしない、ジェネラリストだ。

 こういったタイプの絵描きが普通なんだろうか? と、ふと愚問が脳裏をよぎった。


 結局その後、杜若が描いた猫らしき物体については、猫の骨の構図がうんたらの話をされた。「自分は物体を見るっちゅう能力がとことんあれへんなあ」と言われ、そこから議論は少し、白熱した。観察力が無いというのは、警官としてあるまじきことだったからだ。

 杜若は「警官としてモノを捉える目は違う」などと弁明し、影塚の方は「俺はイラストについて語ってるんやで」と、今思えば全く見当違いな話をしていた。

 最終的に「俺が正しい」という影塚の暴論に近い説教を受け、杜若が新しく煙草を取り出して「へぇへぇ」と流したことにより、その場で解散したように記憶している。

 そしてその後日、自身が描いたのであろう、デジタルのイラストをデータで送って来た。その絵の良し悪しは判断できなかったが、全体的にカラフルで色使いや筆遣いは上手いという事だけが分かった。


 今ではどれだけ凄いイラストレーターなのか、その価値は杜若には計りかねるが、その筋にも詳しいサイバー班に聞いたところ、名前は聞いたことがあるそうだ。なんでも、添削のプロ……らしい。

 杜若は隣で手慣れた運転をする、絵画展とは真逆、『名の知れた絵』を描く画家を横目で見る。


 運転手は絵を描くことを愛し、片や助手席でニコチンを求める警察官は今回の件で絵そのものを嫌いになりそうだった。今後、杜若が自主的に美術館に赴くとは限りなくゼロだ。

「どないした」

 横から大阪弁が飛び出してきて、杜若は叩いていた煙草の箱を一旦膝上に置いた。

「何がだよ?」

「無意識か? おっきな溜息やったぞ」

 マジか。という言葉を発する前に口元を手で押さえる。年下の前では出来るだけそんな行為はしない様にしていたのだが、よほど今回の件について脳がやられているのか。


「お前が言った仮説だがな……」

「仮説ぅ? 自分と俺に濡れ衣着せたっちゅう件か?」

 以外にも、影塚は本気でその説を推してるような口振りだった。だが、そうでなければおかしいのも、この二人はその後、寝食を共にしていたのだからその理論で行くしかない。

「ああ。その仮説は一旦、これから会う澤野刑事に会っても、話すなよ」

「はあ?」と影塚は今日一番の盛大な声量を出して言った。納得がいかないんだろう。

「なんでやねん! 俺達は事実無根やのに、なんでわざわざ更に怪しいような挙動をせなあかんのや」

 運転手は視線こそ動かさない素晴らしい運転技術を披露するも、捲し立てるように一気に喋るものだから、思わず「うるせえ」と助手席の警察官は片耳を塞いでしまう。


「事実無根だからこそ、現場でそのことを知られたらやばいんだ。今あの場所にゃあ、盗まれた時間に居たスタッフや警備員、関係者が可能な限り集められてんだぞ」

 影塚は「それの何が悪い?」という、まだ現場を理解できないといった風貌でハンドルを切った。


 もう美術館は数分足らずで着く。それを示すようにパトカーのランプ、ニュースやドラマで恒例の『関係者立ち入り禁止』の黄色いテープ……。


 恐らくここの管轄地域の警官が二名、寒そうにジャケットを羽織って立っていた。

 そして案の状、影塚のファミリーカーは手前で止められた。


「すいません、現在関係者以外の立ち入りは許可出来ません。何か身分証をご提示願います」

 恐らく他の刑事からの指示なんだろう。杜若は助手席から身を乗り出して自身の警察手帳を提示して見せた。

 すると二人の内、若めの警官の方が多少驚いた顔をして、「し、失礼しました」と食い下がった。

 大方、この現場を取り仕切っているのであろう澤野から、警部補であり容疑者である男がやって来るという簡易的な説明を受けたのだろう。物事を真摯に捉えうる質実剛健しつじつごうけんな奴なくせして、変なところは大雑把なんだ。


 美術館に相応しい、コンクリート造りの拓けた駐車場が広々と設けられている。そこには嬉しくない歓迎、セダンのパトカーが陳列されている。

 普通の四駆が二台並んでいるのは、恐らく澤野淳介刑事のものと、他警部補キャリアのものだろう。それを見るだけで陰鬱な気持ちとなっていく。


 一方、容疑者であることを忘れていそうなイラストレーターは、「ドラマの世界や」と、少々嬉しそうである。

 あからさまな楽観的主観に杜若は「なんでそんなに気楽そうにいられる?」と問うと、流石の警部補も予想できない返事が返ってきた。


「そんなん、この盗難事件の犯人と目的も、なんとなしに分かってるからや」

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