第1話 事件前夜


 さて、事件に巻き込まれる羽目になってしまったわけだが……。その前に、第一容疑者となってしまった杜若盧作かきつばたろうさくについて少し自己紹介をさせて貰いたい。


 杜若盧作、今年で四十三となる。職業は地方刑事――特殊事件捜査係所属の警部補だ。

 特殊事件捜査係はその名の通り、科学的致死嫌捜査技術が求められる特殊部隊の事を指す。だが、その本質は余程の大きい事件でもない限り出動は無く、その殆どの日々を、科学捜査研究所への助力参加、各部隊の事務処理係として過ごす日々だ。

 もうお判り頂けると思うが、警部補が今回の事件の容疑者に上がるなど、汚名なんてものでは済まない。辞職を求められるだろう。


 そして、この不運な警部補の事件に巻き込まれてしまった、同じくして不運な友人、影塚陽一かげづかよういち

 彼はプロのイラストレーターとして絵の仕事を生業として、基本は自宅から出ることも少ない。これだけ聞くと俗に言う陰キャ染みた人物の様に思うだろうが、その性分は知識欲の塊である。

 好奇心旺盛とも言うが……なにせこの二人の出会いも、杜若が昔担当となった事件の際、煙草を吸っているところを影塚がナンパのような形で誰何すいかし始めたことが交友のきっかけだ。


 ある意味、詮索のような行為ではあるが、しっかりと駄目なことは駄目だと理解しているし、何より口がしっかりと堅かった。その素振りや軽快な関西弁から軽い風に思われがちだが、その根っこは意外と繊細で、守ることは守る、質実剛健しつじつごうけんな奴なのだ。


 互いに事件とは程遠い、一番安心出来る立ち位置に居るはずの二人だったのだ。

 だからその日に杜若がニコチンを求めて吸っている頃に、数年振りとなる呑みへの誘いの連絡をしても、影塚は二つ返事で受けてくれた。


 そんな安穏無事の二人が飲み屋に行き、最後は杜若宅で呑もうという話になった。そうして久々の閑談かんだんの時を二人で過ごしていたというのに……。


 互いに良い感じに酔いが回ってきて頃だろうか。朧げだが確か深夜二時半頃、杜若のスマホから突然、昔馴染みの刑事課警部、澤野淳助さわのじゅんすけから、真剣な声色で「杜若警部補、及び杜若盧作に現在関わっている人間に容疑が掛けられている」という一報を受けたのだ。


 そして現在、杜若は項垂れ、どうしたものかと頭を悩ませる。こういった手口に嵌まって容疑者候補から抜け出すのは、かなり骨が折れることも重々承知だからだ。

 流石に影塚も少し酔っているとはいえ、電話一本で蒼ざめていく友人の顔を見たからか、「どないした」と、心配をしている様子だった。

 このまま黙っていても良い事はない。寧ろこちらに事情聴取で向かってきているであろう警察官たちにも、都合が悪くなる。

「ああ、本当にすまない、影塚……こんなはずじゃ……」

 そう零してから酒ではなく、水のペットボトルを一本丸々飲み干す。これから澤野刑事がやって来るので、少しでも酒を抜いておくためだ。


「なんや、えらい元気が無いな? 別にワイは迷惑とか思うてへんぞ?」

 一方で影塚は、この状況を説明しても尚、このようにかなり楽観的である。寧ろ楽しんでいるようにさえ見える。


「お前はなんでそんな平然としてられるんだ? 盗難事件っていうのは、いくら濡れ衣だとしても、それを払拭するのはかなり厄介なんだ。しかも澤野自身が来るなんて……」

「なんやねん、その人が来るとなんか都合が悪いんか?」

「いや、そういうわけでは……」


 本当に、決してそういうわけではなかった。むしろ、澤野はそれこそ警察学校時代からの旧友だから、検挙率こそ目立ったものはないが、その見る目は確かだった。

 そんな彼が、現場の状態や手順の何もかもをすっ飛ばして「あんた、なんてことしたんですか」なんて最初に言って、その後すぐに「そちらへ向かいます」だと言われれば、多少の動揺くらいするものだろう。


 時計に一瞥くれると、午前五時四十分前。

「一服いいか」と言うと、影塚は「ええで」と一言返して、スマホを弄る。

「なあ、その盗難事件。俺は証人ちゅうことにはなれへんのか?」

 少し吸い、口から少しずつ煙を吐き出し切ってから、杜若は眉間の皺を親指で擦りながら考えつつも答える。

「全ての情報が出揃ってないから、なんとも言い難いが……」


 言葉に詰まって、もう一度煙草を吸い込みながら、吐く。その繰り返しを数回行い、杜若は腕組みをしながら、前屈みになるような態勢で影塚と向き合う。

 影塚は真剣な雰囲気も大して気にせず、くすんだ茶色のソファーにゆっくりと、腰を深く下ろしながら足を組んで酒が入ったグラスを揺らす。

「……そうだな。まず、今から来る警察相手に、お前は無関係だ、と主張したいところだが、これが意外と難関だ」

「なんでやねん?」と頭部を掻きながら影塚は、普通の疑問を放り投げてきた。

「俺はあの美術館を訪れた時、道中でその盗難に遭った絵画の写真を撮って、その後すぐに煙草を吸うために足早に出てしまったんだよ。そしてその絵画の事をお前に話してしまっているし……。だが、今は何よりも……」


 杜若は自分の行動の浅はかさを苦々しく噛みしめながら、握り拳を作りつつ「何よりも、俺があの美術館の後に出会っている人間は影塚、お前だけなんだ」と、今二人でいるという状況自体がよろしくないという事を伝えた。


 そう、あの美術館を後にして、この影塚陽一という男を使って盗難を計ったのではないか。しかも相手はイラスト――同じ絵を生業としているとなれば、共犯者として黒の可能性はかなり高くなる。

 少なくとも、自分が第三者であった場合、真っ先に此処に居る二人を事情聴取の為に拘束するだろう。


 少しずつ酔いから醒めつつある脳みそをしっかりと働かせながら、杜若は現在の状況を更に深く語る。

「多分これから澤野刑事が来て、そこから事情聴取。俺が第一容疑者だからお前よりも長く尋問されるだろう。……その前に、影塚。俺はお前の態度が心配だ」

「は? 俺の心配? 何に対しての心配やねん?」


 目の前でまたすぐ酒を呷りそうな友人を、杜若は制して大きな溜め息を吐く。酒で馬鹿になっているのか、それとも本当にただ、あっけらかんとしているだけなのか……。

「相手は一応関西出身だし、その口調は問題ないだろうが、俺が調査していた時みたいに押し強くは行くな、ということだ」

「いまいち分からんな。なんやねん、これから来る奴はそないに堅物な相手だっちゅうんか?」

 杜若は少し悩んで「まあ」とだけ答える。堅物なのは間違いないが、あいつは人に対して詮索するのも、されるのも大嫌いだ。影塚と相性が良いとは、とても思えない。


「はあー……。あの時、事務の子にチケット貰わなきゃ良かったぜ」

 すると絵描きは「はっはっは」と口に手を当てて、まるで女の仕草の様に、だが男らしく軽快に笑った。

「まあ、そらそうやな。そもそも一緒に行こうって言えへんあたり、気前ようて程よい関係な自分に、余ったチケットを渡しただけなの丸わかりやろう」

 ぐうの音も出ない。杜若は少しでも頭を冷やすために、冷蔵庫から新しい水のペットボトルを取り出し、三分の一程飲み干す。

「良いか? 俺は本来、美術の類なんてものには興味がないんだよ。今回行くことになったのも、久しいお前への手土産話と、勿体無い精神から来たに過ぎないんだぜ」


 そこまで話して、影塚と向かい合わせになるよう、先程座っていたソファーへと腰掛けたと同時に、若い友人は「わざと……」と零した。


「はん? わざとって、なんだよ?」

 杜若は冷えたペットボトルを額に乗せ、目を閉じた。脳内が異常に巡り巡って混乱しそうだった。

 だが、影塚はその逆で、寧ろ徐々に頭の回転が良くなっているかのように感じられた。


「誰かが自分に濡れ衣を着せる為に、わざとその時間に例の絵画を盗んで、他の部署の警察に連絡したんちゃうんかって話やで」

「はぁ、理屈は通るが、動機と理由が見つからん」

「そこは俺の専門外やろうが」


 それもそうか。と、閉じていた瞼をゆっくりと開ける。天井の電灯がやけに眩しく感じる。


「……だが、確かにお前の言う通り、段々この状況が出来過ぎてる気がしてきたな」


「ん? 何が出来過ぎてるて?」

 杜若は、深く腰掛けた体制から一気に前屈みの姿勢になって、少し呆けている画家に、煙草を持っていない方の手の人差し指を、眼前まで突きつけた。

「一つ。俺は今日、例の美術館に赴いて、お前と会う事まで詳細に話した相手は存在しない。チケットを貰った子には、多少お前の事も話したかもしれんが……。だが、その時は名前も職業についても話していない」


「ふーん。まあ、別に名前を言われようけど、職業の件言われよ言うけど、俺は気にせえへんけどな」と、語る影塚を放って中指を立てて二本の指を並べ立てる。


「二つ。そもそもそんなに大きな展示会でもない、作品名も作者も無名の絵画だけが盗まれ、偶然俺がその写真を撮ってしまい、急ぎ足で美術館を後にした」

「聞いてるだけやと、犯人以外の何者でもあれへんな、自分」


「そうだな。ちゃんちゃら間抜けな犯人にしか思えないよな」

 そう言って影塚は初めて、はっとした表情を見せた。

「確かに、昔の絵画を盗むこういってのは、そんな容易なもんちゃう。あのサイズに監視カメラやろ? それも踏まえて全部可能に出来るヤツ……。展示会の人間が犯人ちゅうことか?」


 杜若はもう一本の水のペットボトルを飲み干し、膝を叩いて立ち上がる。

「俺らの潔白を示すためにも、現場に向かわなくちゃいけなくなったな。影塚、お前の知識とアドバイスが欲しい」


 絵描きは嬉しそうにソファーから腰を持ち上げ、背伸びをする。その顔はまるで小学生のような喜びで溢れており、杜若への返事も「当たり前や」で、完結させた。


 この歳で汚職警官なんて御免だし、何より友人まで巻き込んでしまった自分を許せない。

 その重い責任を抱えて、本来ここで待っていなくてはいけない澤野刑事を無視し、現場へ向かうというメッセージだけ残して、杜若と影塚は盗品が盗まれたという美術館へと向かった。

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