第8話 しあわせぷるぷる。

「ただいま、こよみ」

私は弾む気持ちを抑えつつふすまを引く。

『おお、お疲れさんじゃな』

膝を折って小さなこよみを抱きしめる。体中の疲れや心中のストレスが溶け出していくような気がする。

 ぼんやりテレビを眺めつつ、こよみを膝の上にのっけたり、寝っ転がって腹の上にのっけたり、うつ伏せになって背中にのっけたり。私の日常には全く変化はなく、上に乗っかるものが増えただけである。ただそれだけでこんなにも幸せになれるのだ。

 こよみはそもそもがスライムだか粘菌だか、得体の知れない生物らしきものであるせいか、同居している両親にも存在が露呈せずにいる。露呈も何も、全ては私の頭の中の、幸福な夢の中の出来事であって、両親は可哀想な娘の姿に、涙を隠して沈黙しているだけかも知れないが。

「いいのかな」

『お前がいいようにしてしもうたのではないか。無責任じゃな』

「それはそうなんだけど」

『私のことを気遣ってくれておるのか。お前根はいい奴なんじゃのう』

「えへへ」

『皮肉が効かんか』

私は階下で食事や風呂などを済ませてから部屋に戻っているのだが、こよみはそのどちらも必要ないと言う。ばかにするな我らは原初にして先鋭なのだそんなつまらん手間かける必要はないのだ存在を維持するためだけにそれほど損耗せねばならぬお前たちと一緒にするな下等定形生物めが、と怒り出す。こよみは少々怒りっぽいようだ。

 そのくせ、母親に食後、デザート持っていきなさいと渡されたフルーツゼリーを見せると、

『ぷるぷるしておるな。ふうむ。ぷるぷるしておるな』

と、隠しきれない興奮を隠そうとしておかしな目の色になっている。異界の存在なのだから別におかしくないのかも知れないが、比喩表現ではなく目の色が赤くなったり青くなったり白くなったりしている。

「食べてみる」

叱られるのを予期しながら勧めてみた。

『む、そこまで言うなら喰うてやるかのう仕方ないのう』

そんなに言ったつもりはないのだが、私は下僕だ。どうぞどうぞ是非お召し上がりくださいませという姿勢である。

 が、こちらの下賤なものを食すのは初めてなのだろう。私の心を鷲掴みにする弾けるような笑顔を広げたまま、手の位置はさてどうしたものかとばかりに宙に浮く。私はこの部屋で食事をしないから、参考になるものはテレビの映像くらいか。的確に行動するにはいささか心許ないか。 

 もちろん、私にとっては僥倖である。スプーンで適量を掬って、

「はい、お姫様、あーん。と、口開けて」

『あーん』

小さい口が開かれ、小さい舌が覗く。私は自分を疑うほど興奮した。私は自分がもしかしたらロリコンとかいう変態性欲の持ち主なのではないかと疑うほどに興奮してしまっていた。ゆっくりゆっくりと舌の上に薄緑に煌めくゼリーのかけらを載せる。

『ん、んまいっ。ぷるぷるが砕けて溶けて喉を降りていく感触が、儚くて切なくて、うまいのう。美味じゃ美味じゃ』

「はい、もうひとくち、あーん」

『あーん』

興奮で胸が痛くなってきた。手元が怪しくなって動きが緩慢になる。ゼリーがなかなか配達されないお客様は、む、と表情を戻す。

『お前のやり方はまどろっこしい。喰い方はわかったからあとは自分でやるわ。寄越せ』

とスプーンを取り上げられてしまう。

「あ、ああ、これは、これは愛情表現で、愛し合うものどうしはこうやって」

『お前たちの都合なんぞ知るか。美味い、美味いのうぷるぷる。刹那的で爽やかで、ああ、たまらぬのう』

味や食感以外の何を味わっているのか、至って凡な定形生物には知る由もないのだが、残りが少なくなっていくにつれお姫様の表情が寂しそうになっていくのはわかる。

「まだあるかも知れないから、見てくるね」

『ふ、ふむ、そこまで言うなら仕方ないのう』

私が作った料理ではないのが残念だが、食事をしてくれるのは嬉しかった。今度は一緒になにか食べようか。

 そうだ、次は手作りのゼリーを用意しよう。

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