第40話 奇襲

 殺戮──

 目の前で行われた惨劇。絵里はそのあまりに一方的な結果に、立ち尽くしたまま呆然としていた。

 個我の、業情の極みとも言える最凶の異能力者トレロと、魔術師の王たる来栖英政。二人の争いは、一瞬のうちに終局していた。

 より正確には言うならば、〝争い〟などと呼べるようなものではなかった。そう呼ぶには、彼の力はあまりに圧倒的で、理不尽なまでに一方的だったからだ。


──信じられない、こんなことって──


 目の前に突きつけられた結果に、絵里は微動だにできなかった。絵里も来栖も、先ほどの立ち位置からは一歩も動いてはいない。変わったのは、ただの一人だけ。

 来栖の足元に転がる、朱に染まった肉塊。

 先ほどまで禍々しくも、完璧な美を放っていたトレロの肉体は、血に染まった肉の塊と成り果てていた。

 人の業、それを源とする圧倒的な魔力と、魔術師に匹敵しうる多彩な異能、それらをもった最凶の異能力者でさえも、魔術師の王に傷一つつけることはできなかったのだ。

 だが、真に絵里を戦慄させていたのは、目の前で行われた一方的な惨劇によるものではなかった。


「……トレロ、貴様の思いがどんなに強くとも、所詮は我。自己の範疇を超えていないのだ」


 冷徹にそうつぶやく来栖。

 両者が激突した刹那、来栖の背中から絵里が感じ取った彼の魔力の源である〝思い〟の正体。それ比べれば、目の前の惨劇さえも、瑣末なモノであった。

 魔術師と異能力者、両者の力の差は、結局のところ異能の多彩さの違いにすぎない。単能の異能力者と多能の魔術師、だが異能力者の中の異端である複数の力を操るトレロの力は、本来なら魔術師たる来栖に比肩しうるはずのものだった。

 ゆえにもたらされた惨劇を生んだのは、魔術師と異能力者の差などではない。

 端的に言えば、異能の原動力たる両者の〝魔力〟の〝量〟の、圧倒的な格差によるものだった。

 空間を歪ませるほど濃密なトレロの魔力と、それを生んだトレロの感情想念。それは人の業の極致ともいえるものだった。

 だが、絵里が感じ取った来栖の魔力とその源は、それさえも上回るほどの、究極のものだった。

 来栖の感情の色、その魔力の源は、桁こそ違えども基本的には絵里のそれと同質のもの。

 絵里は全身を駆け巡る悪寒に身悶えながらも、その時初めてマナハザードを起こしたのは来栖であるとの確信を得た。

 間違いない。

 この男は確固たる信念の元に、あの未曾有の大災害を意図的に引き起こしたのだ。

 魔力とは、人間の意思の現実世界への投影。感情はその起爆剤である。

 22億の犠牲者を生んだマナハザードと、それを起こした来栖英政。

 だがその犠牲に対して、来栖の心には、まるで透き通った湖面のように一点の曇りもなかった。

 傲慢、そんな言葉すら遥か遠くに置いてきたような──

 完全かつ絶対的な、人が持ち得る最も崇高なる意志、すなわち──


──「正義」──


 信じがたいことだったが、来栖は絵里には到底理解できない完全なる正義の心の下に、あの大災害を引き起こしたのだ。

 そして、その崇高なる〝正義〟の念が、来栖の精神の源にして魔力源。


『弟よ、だが理想のために、二十二億の犠牲は、果たして重いのか?』


 かつて来栖が英次に語った言葉が、絵里の脳裏に響く。

 あれは微塵たりも迷いのない、心からの言葉。

 世界を変革しようと欲する者がもつ業とは、さも深いものなのか。


──勝てない。あいつがどんなに強い怒りを持とうとも、この男には決して届かない──


 結局のところ、英次は自らの、自己の怒りを叩きつけているだけなのだ。

 心に一点の曇りも残さずに、世界を変えようとする絶対の意志。これが特区の頂点に立つ男の心情。劣情の極地から愉悦を見出したトレロも、憤怒を魔力源とする英次も、決して届き得ない感情の領域に、この男は最初からいたのだ。


「……う……ふふ、ぐっ……ふふ……」


 血塗られた肉の塊と果てたトレロの口から、何かがこぼれる。それは声というよりも肉塊から出る空気の塊に過ぎなかったが、なお最後まで嘲るような声色を秘めていた。


「……まだ息があるとはな。

 お前の悪夢を、終わらせてやる」


 来栖は初めてその場から足を動かし、肉塊と成り果てたトレロに歩み寄る。戦いの場では絵里の前から微動だにしなかったこの男が静かに右手をかざす。

 その静かで優雅な姿は、新世界の支配者にふさわしい絶対的な威厳をたたえたものに見えた、が──


「──その余裕が命取だ。兄さん」


「!?」


 刹那、絵里の目の前の空間が小さく歪む。

 僅かな空気の流れが絵里の頬をかすめると同時に、目前に出現した見覚えのある後ろ姿──


「英次!?」


 刹那──英次の右腕が兄英政の腹部に叩きつけられていた。 

 勝利の直後に生じた、わずかなる余韻。加えて、守っていたはずの存在である絵里の視界から出現した英次の一撃は、ついに魔術師の王たる来栖英政にとどいた。


「……この娘を、使い魔にしていたか。私が彼女を守る、と踏んだわけか」


 衝撃に見舞われながらも、変わらぬ口調の来栖。

 英次のテレポートは使い魔の視界の範囲内に限られる。英次が絵里に申し出た〝願い〟こそは、絵里を自らの使い魔にすることだった。


「──だがお前と戦う必要など、私には無い」


 テレポートで退避しようとする来栖。そう、転移異能力者同士の戦いは、決着がつかない。テレポートによって確実に離脱してしまうからだ。


「逃がさん!」


 だが来栖の発動しようとした転移能力は、英次から放たれた青白い閃光によってキャンセルされた。空間をかき乱し、テレポートを制御する異能力。


「! あれは、圭くんの?」


 英次が発動した力に、絵里は驚き息を飲む。

 あれは、圭くんのスフィア・ディスターバー。

 そうか、勝つために圭くんの力までも、英次は模倣したのか。英次はもはや手段を選ばないということか。

 絵里がそう痛感した直後、地面を高速で走る水銀の群が、大きな水飴のように隆起して来栖を包み、その体を捉えた。

 この異能も知っている、弥生の異能である金属操作能力だった。瀕死の状態とはいえ、弥生の身体はトレロの一部として未だに生きているんドア。

 テレポートを封じ、その肉体を捉えることで、英次はついに兄を自身の言葉の前に引きずりおろすことに成功したのだ。


「兄さん、答えろ! なぜ人々に異能の神秘を解き放った!? 一般の人々が神秘を手にすれば、大いなる混乱と災いを招く、その結果が、この世界だ」


 二十二億の犠牲と、生き残った人類に与えられた理不尽な世界。多くの犠牲の上に、作り上げられた歪にゆがんだ世界。それに対する怒りが、悲しみの念が、ついに言葉となって兄英政に叩きつけられる。


「神秘は、魔術師によって適切に〝管理〟され、〝指導〟されなければならないものだ。それは魔術師なら誰でも知っていることのはずだ、兄さん!」


 必死の形相の弟の必死の問い。

 だがその言葉だけは見過ごせなかったのか、英政はわずかに眉を細めながら──

 初めて弟に向き合い、その問いに答えた。


「──〝指導〟? 弟よ、それは〝支配〟だ」


 まるで傲慢なのは英次であると非難するかのような、静かな言葉。

 兄英政の瞳は冷たく、だが恐ろしいほど静かに澄んでいた。


「ふざけるな! 力が、異能が全ての、こんな世界を作って──その頂点にたって、王様にでもなったつもりか!」


「弟よ。日本の中に特区が存在しているのではない。両者が並存しているわけでもない。対外的には日本は、特区の領土なのだ。

 そして特区を総覧しているのが──この私」


 来栖の体に電流のようなものが走ると同時に、来栖の体は消失し、英次の右手後方に現出する。


「!?」


 来栖が転移能力を発動したこと、つまりスフィアディスターバーがキャンセルされたことに、驚き目を見開く英次。


「限定的に空間を歪め、テレポートを制御する異能。これは彼、結城桂君の力だな。勝つためになら〝あの娘〟の弟の力までも、利用する、か。手を汚すことも、覚えたのだな、英次。だが、汚い手を使うのは、お前だけではない」


 弟のすべてを見透かしたような、兄の声。


「──特区の全てを総覧する私が、あの施設の存在を知らないとでも、思っていたのか? 彼とその姉の存在、そして真奈美のためにお前が借り受けた屋敷についてもな」


 小さく指を鳴らすと同時に、来栖の転移能力によって出現したのは、絵里も英次もよく知った二人だった。

 一人は盲目の少女、真奈美。 

 もう一人は、彼女の手を引くメイド服を着た少女、葵。


「なん……だと?」


 驚愕の声は英次のもの。

 彼にとって、絶対の安全を期すために後方に下げていた二人が、突如として来栖によって戦いの最前線に呼び出されたのだ。

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