第39話 秘密
同時刻、葵は屋敷のリビングで、英次の言葉に静かに耳を傾けていた。
「では、くれぐれも真奈美を頼む」
暖炉の火に照らし出された英次の横顔が、幾度となく聞かされていた言葉をつむぐ。
「圭くんは特区内の病院に移送手続きを済ませておいた。葵のお母さんが入院している病院と同じところだ。費用はお母さんの分も含めて、すべて支払っている、心配はいらない」
英次は矢継ぎ早に、言葉を続けていた。
葵の弟のこと、母のこと、屋敷のこと、今後の暮らしのこと。
葵は無言で、ただ英次の言葉にうなづく。
──この人は、これから何をしようとしているのか?──
──どこに行こうとしているのか?──
結局自分は、この人の一番大切な人の世話を預かっている人間に過ぎない。英次と出会って半年になるが、最後まで自身のことは何一つ語ってくれなかった。
だが──それは自分の方も同じだ。
結局、葵もまた彼に本当のことを打ち明けたりしなかった。
ただ一つ明らかなのは、今夜、この暮らしが終焉を迎えることだけだ。英次の面持ちと語り口調から、葵はそう直感的に理解していた。
「俺は……帰らないかもしれない。だが、その場合でもここはしばらくは安全のはずだ。
真奈美には、俺はどこか遠くに出かけていると言っておいて欲しい。学校には真奈美の友達もいる。大丈夫、俺のことなどじきに気にしなくなるさ」
最後にどこか寂しげな面持ちで、そんな軽口を語った。
そんなことはありえない。英次が妹を失うのと同様、真奈美が兄を失えば、それは一生の傷となり、彼女の心に残るだろう。
真奈美は生涯、この兄の影を追い求めることになる。
「では、行ってくる」
葵に背を向け、旅立とうとする英次。
おそらく二度と見ることのなくなるであろう彼の後ろ姿。その背を見て、葵は生まれて初めて、自身の心の奥底から熱い感情が込み上げてくるのを感じた。いつも静かな自分の心に、こんな感情があったのかと今更ながらに驚く。
──引き止めよう──
何もかも打ち明けて、死地に赴こうとするこの人を引き止めて、みんなで一緒にどこかに逃げてしまえばいい。
犯した罪についても、この人ならきっと許してくれる。
英次に向けて、ゆっくりと伸ばされた葵の右腕。
その指先が、英次の方に触れようとした瞬間、
弟と母親の姿を思い出し、葵は喉元まで来ていた言葉を飲み込んだ。
──そうだ、私にはそんな資格は、すでにないのだ──
「……はい、わかりました。でも……なるべく早く返ってきてください」
気がつくと彼女の唇は、そんな言葉を紡いでいた。
沸き起こる思いと言葉を心の深くに秘めたまま、葵は精一杯の作り笑顔を浮かべ、英次を見送った。
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