第38話 トレロの正体

「あ、あああ……」


 逃げきれない。

 言葉にならない声が唇からこぼれ、涙腺には大粒の涙が溜まる。

 不可避な死の直感──仮に逃れられたとしても、特区にも外地にも、もう絵里の居場所などないのだ。それどころか家族や友達にも害が及ぶかもしれない。

 絵里は今更ながらに自らの軽率を後悔した。決して踏み込んではならない禁断の領域、そこに自分は、あまりに軽率に足を踏み入れてしまったのだと。


「──そこにいるのはわかっている。いい加減、姿をあらわせ」


 だが来栖は絵里からあっさりと視線を移し、背後の暗闇に向かって問いかけた。


「──くっくく、貴方はこの施設を使わないのかい?」


 暗闇から、美しいがひどく下品な声が響く。


 この声色には覚えがある。絵里の心の奥深くに刻み込まれた、忘れたくても忘れようのない声──


「その必要はない。私の目的は、〝すでに達成されている〟のだから」


「フフ、それはよかった」


 闇の中から浮かび上がる下卑た唇。

 人形のように生気のない美しい女。禍々しいほどの情欲をたたえた瞳だけが、まるで別の生き物のように燦然と光っている。


「まさか、トレロ……生きて、いたの?」


 絵里は驚愕のあまり目を見開き、さらなる絶望的な状況に色を失った。

 まさに前門の虎に、後門の狼。

 逃げられない。たとえ英次であっても、この状況から脱することはできないだろう。

 だが──次に来栖がとった予想外の行動に、絵里は思わず息をのんだ。


「──絵里君、君はそこから動かないように」


 来栖はトレロと絵里の前を遮るように、絵里に背を向けたのだ。

 上質のスーツに包まれた大きな背中が、盾のように絵里の前に立ちふさがり、トレロからの圧力を遮る。それは何度も絵里の前に立った、英次の背中を彷彿とさせた。


「わ、私を……ま、まもるの?」


「ああ、君は真奈美と英次の友人なのだろう?」


 さも当然のように答える来栖。

 絵里は初めて彼が「動くな」と語った意味を理解した。最初から真奈美と英次の友人である自分を守ろうとしていてくれていたのか。


(そうか──アイツはこの男の〝敵〟にすらなれていないのか。英次が執拗に命を狙おうとも、兄にとっては子供の悪戯に等しいという事か)


「……嬉しいよ。ようやく相手してくれるんだね、特区の王。いや、魔術師の王というべきかな」


「──その体、随分と特殊なようだな。貴様の強さの秘訣が、その特異体質か」 


「ふふふ、ご名答。相手をしてくれるお礼に、私の秘密をみせてあげよう」


 まるで情婦の様に妖しく微笑みながら、何を思ったかトレロは自らの上半身を覆っていた布を破り捨てた。

 闇の中に輝く白い肌。絵里の眼前に露わになったのは、完璧なまでに美しい女の裸体だった。少女のように可憐でしなやかな肩に、白桃の様な大きさと形の美しい一対の乳房。そして艶やかなラインを誇るくびれたウエスト。指の一本一本までが、それぞれが別個の芸術品のような、輝くような美しさを誇っていた。

 まさに完全なる美の女神の顕現に、絵里は思わず息をのむ。

 だが美しい花の蕾の部分だけを集めて一個の花束を作れば、それはいびつな醜悪さを生む。

 トレロのその裸体は、そのパーツそれぞれが完璧すぎるがゆえに、言いようのない不吉さを内包していた。


 ──不吉を紡ぎあげて作った美しい人形──


 そんな言葉が脳裏をよぎる。


「フフフ、どうだい、綺麗だろう? この上半身は、特に気にいってるんだ。なにせ何十人もの美女達の肉体を犠牲にし、作り上げた体らしいからね」


 豊かな乳房を誇張するように、トレロは美しく上半身をくねらせる。


「……英次との戦いで分身能力を奪ったのか。その力を使えば弟に勝てたろうに」


 完璧な裸体を前に、だが来栖は抑揚のない冷たい声で答える。


「彼はもっと強くなる。あるいは貴方よりも……でも、今強いのは貴方」


「異能力者の体の一部を取り込む事によって、複数の能力の使用を可能にする、か。フン……今も昔も、異能力者も魔術師も、人の考える事はそう変わらぬものだな」


 トレロの秘密さえも英政にとっては驚くべきものではないのだろうか、抑揚のない声だけが響く。


「──異能力者の遺伝子を束ね、万能の魔術書を紡ぎあげる。そうすればテレポートによってその魔術書とラインをつなぐだけで、あらゆる魔術を使いこなすことができる。やはり妹である〝ソロモンの花嫁〟も私と同じ特異体質者なんだね?」


──妹? 真奈美ちゃんの事?──


 だが絵里の疑問にもトレロの言葉にも来栖は答えることなく、ただ氷のような視線を返す。

 これから死ぬ者に答える言葉などないと、その鋭利な背中は告げていた。

 トレロはその反応に満足したのか、凄絶な笑みを浮かべながら、口をひらく。


「……他者のあらゆる肉体の移植を、抵抗なく受け入れる事ができる特異体質。私はこの体質のせいで、生まれた瞬間からある資産家の玩具だった。性別も戸籍もなく、存在すら秘匿され飼われていた存在。物心つく前に私の体のパーツは全て取り除かれ〝奴〟が〝美しい〟と認識したものだけが移植されてきた。この五体の全て、私本来のものはないんだ。元が男なのか女なのかすら、私自身にもわからない」


 奴の上半身こそ美しい女性の姿だが、奴の下半身は男性のモノ。その歪な肉体、その美の理由に、絵里は息を飲む。人の業は、欲望は、それほど深いもなのか。


「だが、あの日、〝革命〟が起こった。金から力へ、金持ちから異能力者へと、支配階級が変わった。そして偶然にも奴が移植した私のある部位が、酸の異能に目覚めたのだ。札束を握りしめ命乞いをしてきた〝奴〟。その大切に握りしめた〝お金様〟を〝酸〟に変え、生きたままゆっくりと溶かし殺していく、それはこの世のものとは思えないほどの快楽だったよ」


 込められた感情は、吐き気がするほど濃密な魔力の放出となって、その体を包み込む。


「──愉悦か、貴様の感情の源は」


「世界は強き者のモノ、それはいつの時代も変わらぬ真理。だが力の性質が変わる瞬間がある。〝革命〟(パーティ)、人類史において幾度とない至高の瞬間、力の性質の交代。歴史の華。

 マナハザードを起こしたあんたには感謝している。金ではなく異能という、より力に忠実なる世界を作ったのだからねえ。

 だが後で知ったよ。マナハザード以前より旧世界の権力者達と手を組んで神秘を秘匿し、権力者たちが去った今なお異能力者たちの上に君臨している貴方たち魔術師の存在を」


 狂気に歪むトレロの唇。それは心の底からこみ上げてきた熱い歓喜の笑みだった。


「旧世界の権力者達は消えた。だが依然として高みに君臨しているのは魔術師。私はまた〝革命〟(パーティ)を起こしたい。異能力者の上に立つ魔術師を、その頂にいる貴方を引き摺り下ろすことによってね」


 両腕を天高く掲げ、そう宣言するトレロ。

 発動される濃密なる魔力。世界が、トレロを包む空間ごと陽炎のようにグニャリと歪む。


──人間は、ここまでゆがんだ業を、感情を、持ちうるのか──


 絵里には言葉さえ無い。奴が持つのは個体としての人間が持ちうる業の極限、人類が積み重ねてきた狂気と欲望の果て、歪曲された世界は吐き気がするほど濃密で禍々しい魔力の放出だった。


「──お前は、弱い」


 だが来栖は氷のように冷たい視線のまま切り捨てる。まるで空間ごと隔絶したかのような絶対の意思。いかなる狂気と欲望を前にしても、彼の表情は鋼鉄でできた仮面のように微動だにしない。


「────」


 その鋼鉄の表情に、トレロは、瞳を極限まで大きく見開き──


「ウフフフフフ……グフフフフフフ……あはっ、ははははははっは……

 アーハッッハッ!」


 美しい女の声で、野太い男の声で、絶頂の奇声をあげた。

 それは自らの宿業、因果の全てを、叩きつけてなお余る男に対する賞賛と喜びの声だった。

 狂声とともに、周囲の空間を歪ませながらトレロが疾駆する。

 空間を歪曲しながら進むその姿は巨大な黒い影のよう。

 来栖は眉ひとつ動かさず、ただ背後に回された彼の左手だけが、静かに宙を切る。

 絵里の眼前、呼吸すら許され無い濃密な空気の中で、

 最凶の異能力者と魔術師の王との戦の火蓋が、切って落とされた。

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