第35話 過去から来た魔術師

「ふう、これでこっちの洗い物は終わったわ」


 洗い終わった皿を戸棚にしまい込みながら、絵里は傍の葵にそう言った。


「……申し訳ありません。お客様にこんなことをさせてしまって……」


 力なくつぶやく葵に対し、絵里は「気にしないで」とかぶりをふる。

 実際、葵の心境を察すれば食器洗い役をかってでるくらい、別にたいしたことない。むしろ身体を動かしている方が気が紛れると、絵里は思った。

  病院での激闘から一時間、絵里は英次達の屋敷に帰還していた。

 トレロとの死闘の直後、血だらけで負傷していた英次は、だが騒ぎを聞きつけた人が集まる前に転移能力を発動させて、絵里と圭を連れて屋敷に帰還したのだ。

 英次の転移能力は〝使い魔〟の視界の範囲内に限られるという。転移をした先に葵がいたことからして、彼女もあの黒猫と同様、英次の使い魔としての役割を与えられているのだろう。 

 学校以外は基本的に真奈美のそばにいるはずの葵を英次の使い魔にすれば、いつでも真奈美の元に転移できる。


(これも真奈美ちゃんを守るための保険、という事か……)


 無事に帰還できた絵里は返り血だらけの制服を着替えて屋敷の風呂を借り、葵がつくった簡単な食事を済ませて一息ついた後、食器洗いの手伝いを申し出たのだった。


「ここは私に任せて、葵さん、あなたは弟さんのところに行ってあげなさい」


「ありがとうございます。でも、お客様を残していけませんし……」


 絵里の言葉にも、無理な作り笑顔でかぶりを振る葵。

 弟である圭くんが置かれていた状況は、彼女にとって衝撃的な事実だったはずだ。だが葵はその動揺を、客人である絵里には感じさせないようにつとめている様だった。

 葵の年齢を絵里は知らなかったが、外見から察するに自分とそう変わらないだろう。だが彼女は絵里と同年代とは思えないほど落ち着いており、その芯は強いものを感じさせた。

 だが……この芯の強さは本当に彼女の生まれついてのものだろうか?

 それを思うと絵里は背筋が冷たくなるのを感じた。

 あの研究所で行われていた〝実験〟。トレロや英次の言葉によれば、あそこで横たわっていたノーマルの患者達は全員、自らの意思であの研究に参加していたことになる。つまり彼らは大きなリスクを承知の上で異能力者達の仲間入りを果たそうとしていたのだ。それは裏を返せば、この国でのノーマル達の過酷な状況を象徴していた。


(葵や圭がどれほど思いをしてきたの? 特区の内外で異能力者達はノーマル達に何をしてきたの?)


 それを思うと絵里はそら恐ろしいものを感じざるを得なかった。洗い物の手伝いをかってでたのも、そんな思いに駆られたからなのかもしれない。


「私が行っても英次さんの治療の邪魔になるますし……きっと大丈夫です」


 絵里の陰鬱な表情の原因を圭の病状によるものと勘違いしたのか、気丈に作り笑いを浮かべる葵。絵里にとっては予想外だったが、弟があんな目に遭ってもなお、葵の英次に対する信頼は微塵も揺らいでいるようには見えなかった。


「……葵さん、聞かせてもらえないかしら、貴方と英次の関係を」


 意を決して、絵里は葵に問う。


「このお屋敷、本当はあなたのお家よね?」


 頭の中でトレロと英次の会話のピースをつなぎ合わせる。

 すなわち、この家の本来の所有者は葵と圭の姉弟なのだ。そして圭が危険を冒しても異能の力に目覚めたいと欲したのも、この屋敷を取り戻すためらしかった。


「はい……この家は、元々私達の家です」


 小さくうなづきながら、肯定する葵。


「いったいどういうことなの?」


「それは……」


 絵里の詰問に、葵は言葉を濁らせる。まるで彼女を責めている様で気が滅入ったが、ここで引くわけにもいかない。


「──つまり、英次は力づくで貴女達からこの屋敷を奪い取ったということ?」


「違います。英次さんはこの家を取り返してくれたんです」


 絵里があえて口にした的外れな推測を、葵は声をやや荒らげながら否定する。この娘が動揺する姿を、絵里は初めてみた。

 そして絵里の推測を否定するためか、英次との馴れ初めを語り出した。


「……今から四ヶ月ほど前に、私は特区での家政婦のお仕事に応募していました。母の入院と弟の学費のために、お金が必要だったんです。特区の斡旋業者から、たまたま前に自分が住んでいた屋敷の家政婦の仕事を紹介されて……メイドとはいえ昔自分が住んでいた屋敷で働けると聞いて喜んでいたんですが……それが雇い主がひどい人で……」


 辛い事を思い出したのだろうか、葵がうつむいて口ごもる。


「前の雇い主って、あのスキンヘッドの兄弟の事?」


 絵里の質問に、葵は無言でうなづく。

 すっかり失念していたが、傭兵と一緒にこの屋敷を攻めてきたスキンヘッドの兄弟と屋敷のことで口論していたことを思い出した。英次が傭兵を撃退すると同時に、逃げてしまったが……そうか、彼らが葵の本来の雇用主だったのか。


「条件が違うともめている時に、英次さんが真奈美ちゃんと一緒にやってきて、英次さんがあの兄弟をどこかに飛ばしてしまったんです。ノーマルの私でさえわかるほどの、猛々しい怒りの魔力の放出でした」


 絵里にはその時の様相は手に取るようにわかった。怒りの感情を魔力に転換した英次が、その大出力にものをいわせて転移能力を発動したのだろう。

 英次にとっては刃を交える価値すらない存在だったという事か。


「それで、あの兄弟の代わりに英次が貴女を雇う事になったという事ね?」


「はい。英次さんは住むところと、真奈美ちゃんのお世話をする人を探しているみたいでしたので……」  


「そもそもアイツはなんでこのお屋敷を訪ねてきたの? 葵ちゃんとは初対面だったんでしょ?」


「それが……英次さんは私の父を訪ねて来たみたいなんです」


「葵さんの、お父さんを?」


「はい。でも不思議なんです。父は十年も前に他界しているんですが、まるで英次さんは半年ほど前に会っていたような口ぶりでした。それに英次さんも真奈美ちゃんも私の事を知っているみたいでした。私が小さい時に遊んでくれたと言っていたんですが、私は覚えていなくて」


 葵の困惑は絵里にも理解できた。

 英次はともかく真奈美まで葵のことを覚えているのに、葵の方は覚えていない。こんな事があるとは思えなかったからだ。


「……過去から訪ねてきた兄妹、そんな風に、私には思えました」 


 葵が小さくつぶやいた言葉が、絵里の心に響く。

 そう、英次とは間にある決定的なズレ。彼とは時間の感覚が合わないのだ。英次との価値観のズレの根本が、そのあたりにあるように思えた。

 まるで英次だけが、絵里たちとは違う時間を生きているような──


「──圭君の体の魔術的治療は終了した」


 背後より発せられた鋭い声に、絵里はハッとする。

 いつの間にだろうか、英次はリビングに立ち、いつもの冷たい瞳で絵里達を見つめていた。トレロによって奪われていたはずの右腕は治癒し、外見上は普段と変わらない。


「弟の、圭の容体は大丈夫でしょうか?」


 英次の元に駆け寄った葵が懇願するような面持ちで英次に尋ねる。


「ああ、しばらく眠り続けるだろうが、一ヶ月もすれば必ず目覚める」


「よかった……」


 その言葉に葵の顔色が和らぐ。気丈に振舞っていたが、やはりそうとう気持ちを張り詰めていたのだろう。


「……葵、君は圭君のそばに行ってあげてくれ」


「はい、わかりました」


 そう言われるや否や、葵は絵里に小さく目礼し、足早に二階へ駆けていく。

 絵里はリビングに取り残され、こちらを凝視していた英次と視線が交差する。この男と二人きりになるのは、何度目だろうか。いつもこんな気まずい空気だった気がする。


「あまり、俺のことを聞きまわるのはよしてくれ」


 そんな言葉が英次の口から投げかけられ、絵里は一瞬狼狽する。

 葵に英次との関係を尋ねていた事を不快に感じたのだろうか。だがその瞳には絵里を邪険にするような色はなかった。


〝聞きたい事があるなら、に直接聞け〟


 深い闇をたたえた彼の瞳が、そう言っているように思えた。

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