第32話 不屈の魔術師

            *          *


 眼前で見せつけられた信じられないほどの異形を前に、絵里は言葉を失っていた。

 まさに狂気──いかなる業と情欲の海を隔てれば、こんな人間が生まれるのか。マナハザード以後に生まれた異能力者達の中でもとびきりの異端者、英次に匹敵するほどの魔力量に加えて、恐るべきセンスと多彩な異能の使い手。


 「まずいにゃ、このままじゃご主人は負けちゃうニャ」


 足下で悲鳴をあげるのは、聞き覚えのある猫レオの声。


 ──負ける? あの魔術師が、敗北する?──


「オリ達もあの変態に殺されちゃうニャ、オリは死にたくないミー」


 言葉とは裏腹に、どことなく悲壮感を感じさせないレオの悲鳴に、絵里はやっと我に返る。


「……あいつが、魔術師が異能力者に負けるなんてこと、あるの?」


「空間認識をかき乱す奴の能力は、テレポーターと相性が悪すぎるニャ、やばいミー」


 (英次が、あの魔術師が、負ける……空間認識をかき乱す能力者によって?)


 あまりの事態に、絵里は状況を飲み込むのに時間がかかった。

 英次の魔術の根幹がテレポートで、トレロはあの少年の空間を掻き乱す異能を流用しているのということ。     

 それは魔術師の天敵であり、英次は破れ、ベッドの患者たちは見捨てられる。それが直面している不可避の現実だった。


──いや、それなら私の力で──


 絵里はふと思い至った。

 そうだ。他の誰でもない、空間把握こそ絵里の十八番。絵里自身の異能を用いれば、この窮地を脱することができるかもしれない。


「!?」


 そう思い顔を上げた瞬間、絵里はその場で身を硬直させてしまった。

 まるで絵里の考えを読んでいたかのように、トレロがこちらを見つめていたのだ。

 とても人間が負えるとは思えない業を瞳に満々とたたえ、まるで絵里の考えを読みきっているかのように光る爬虫類の様な冷酷な微笑み。

 背筋が凍るほどの悪寒。同時に絵里の脳裏に先刻の学校での記憶がフラッシュバックする。

 背後に回られた時に背筋より感じた、冷たい、絶対的な死の恐怖。

 あの時感じた死神に魅入られたような寒気と、生理的な嫌悪感。


 ──だめ、あれに立ち向かうなど、私には無理だ──


 絵里の本能は直感的に理解していた。

 人間ではアレには敵わない。歪んだ世界が生んだ、尋常ではない何か。

 アレに挑むなど、正気の沙汰とは思えない。だが──


「トレロ! よそ見してるんじゃ、ねえ」


 病室に響く咆哮──手負いの獣を彷彿とさせる様なその叫びは、その英次の魂が未だに屈服していないことを証明していた。

 絵里にとって、この男はいつもそうだった。いかなる強敵にも、常識にも、秩序と呼ばれるものにさえ決して屈せず、世界を相手に一人戦う姿勢を決して崩さなかった。

 右腕を失い血反吐を吐きながらも、トレロをまっすぐに見据えながら立ち上がる英次。

 その姿を見据えながら、絵里は思う。


──何が、どんな感情と意思が人間をあそこまで強くするのだろうか──

──何が、歪んだ世界と狂気に立ち向かう力を与えているのだろうか──

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