第30話 魔術師の敗北

            *          *


 響くトレロの声の中で、絵里はあまりのことに事態を認められずにいた。


──あの肩は、弥生さんのもの……つまり弥生さんは、既に……いや、そんな──


 呆然としている絵里の前に、レオが駆け寄ってくる。


「嬢ちゃん、ご主人からの指示だにゃ。屋敷まで転移するにゃ」


「ど、どういうこと?」


「あのベッドの患者たちを連れて、一旦ここから逃げるにゃ!」


 ここから撤退する。つまり──英次は弥生の救出を諦めたということなのか?


「そんな……弥生さんを見捨てるなんて……」


「ベッドの患者を守りながら、トレロと戦うのは無理にゃ。あの女の事は、それから考えればいいにゃ」


 レオの言葉には、確かに納得せざるを得ない。あくまで仕切り直しのための、戦術的撤退。そう、決して弥生の救出を放棄するわけではないのだ。

 

(いや、しかし……)


 必死で自分を納得させようとしても、ここから逃げることは、弥生の救出を諦めることと同義であるということを、絵里は感覚的に理解していた。それは迷いとなって、彼女をから立たせる。


「!?」


 刹那、絵里の前の空間がぐにゃりと歪む。

 それは先ほど体感したものと同じ。だが今度のはベッド群全体を巻き込んだ、病床全体を範囲とした恐ろしいほど広域のテレポートの発動だった。 

 絵里の同意など、英次には不要なのだろう。周囲の景色は消え去り、暗闇だけが覆う。

 一瞬の後に、この悪夢の様な死地から離脱するはず──

 だが、


「──ダメだよ。逃さないからね」


 トレロの指先から、小さな青い稲妻がほとばしったと同時に、

 四方を覆っていた亜空間にガラスのように崩壊した。


「ここは……さっきの病室? テレポート、できてないの?」


 絵里が気がついた時には、目の前の景色は病室に戻っていた。無数のベッド群に、破壊された壁の大穴から冷たい外気が、奥の病床群ににむけて吹き付けている。


「俺の転移を、制御しただと?」


 英次の驚愕の声が響く。テレポートをキャンセルしたトレロの力は、魔術師である英次ですら想定外のものだったのだろう。


「ククク……せっかく〝患者〟達が巻き込まれないように転移して逃げようとしたのに、残念でした♡」


 対照的に、余裕の薄ら笑いを浮かべるトレロ。 


「それに、別にアナタが彼らの命を気にかける必要は無い。彼らは廃人になるリスクを冒してさえ、異能の力に目覚める可能性を選んだんだ。魔術師であるアナタの力に巻き込まれて死んでも、むしろ本望なんじゃないかな? もちろん、〝彼女〟の〝弟〟も含めてね」


「貴様──」


 獰猛な眼差しでにらみつける英次。だがその声色には、わずかにだが焦りの色が混ざっていた。


「世界は力ある者のモノ、それがアナタの〝お兄さん〟が作ったこの新秩序の〝摂理〟。

 教えてあげよう。異能の力を得るために、ノーマル達がどれほどの犠牲を払ってきたのかを──この異能研究機関の〝成果〟をね」


 会話の間に充足させていたであろう禍々しい魔力を、再び放出するトレロ。

 幾度もの激突を経てもなお、尽きることのない禍々しい魔力。その源である感情の色は、依然として愉悦。

 焦燥の念を隠しきれない英次とは対照的に、トレロの唇は歓喜に歪んでいた。


「……マナハザードから十年、科学者達はあらゆる知識を総動員し、血眼になってこの大災害の源たる異能の力を研究してきた。特に古来より〝魔術師〟と呼ばれる人々の一部が、複数の異能を使いこなしていたことについてね。そして幾度もの狂気の人体実験の果てに、一つの結論に達した。

 すなわち古来より神秘を秘匿し独占してきた魔術師は、人々が稀に持つ〝異能〟と呼ばれる超能力を、転移能力を用いて流用してきたという事だ。それが多彩な異能を操る魔術師の奥義。テレポートが異能の女王と呼ばれる真の理由は、そこにあった。 

 ──だから〝簡単〟に、壊せる」


 その瞬間──変質した床がゴムのようにしなり、英次の体を吹き飛ばした。


「え!?」


 そのまま壁に激突する英次。打ち付けられた体から吹き出す血しぶきを眼前に、絵里は何が起こったのか理解できなかった。

 今まで圧倒的な存在であった〝魔術師〟が、まるで棒切れのように簡単に吹き飛ばされ、地に伏せっている。だがその姿には既視感があった。そう、彼があの〝兄〟に挑んだ時と全く同じ状況──

 いかなる攻撃も避けうる英次の空間転移(テレポート)も、その応用とされる多彩な異能も、発動された形跡は微塵も見られなかったのだ。

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