第19話 英次とメイドの葵

             *           *



 ──体が、熱い──


 燃えるようなこの熱は、英次自身の心の奥底から沸き起こってくるものだった。


 ──熱い──


 体のいたるところから、軋む音がする。

 英次の全身のいたるところで血管が破裂してもなお、それぞれ器官がまるで個別の生命かのように激しく脈打ち、寸断された肉を強引につないでいた。

 これは〝肉体再生の魔術〟──肉体を治癒し、新たな戦いへと身を誘うために、英次が自分自身にかけた呪い。その無尽蔵とも思える再生力は、だが当然にして有限であり、限りがある。

 それは代償として寿命を喰らう類の〝呪い〟だった。


 ──届かない──


 痛みに悶えながらも、絶望的なまでの戦力差を前に本能が叫ぶ。


 ──届かない──


 命をかけても、未来を捨ててさえも、届かない。


 ──今の自分では、届かない──


 全身を襲う激痛も、負った傷も、代償たる未来にさえも、後悔はない。

 先ほど戦った傭兵などは、もはや眼中にない。ただ無念なのは、やっと見つけた兄を前にしても、届かなかった自身の無力。


 ──それでも、俺は、やらなければ──


 脳裏に浮かぶのは、怜悧な瞳を持つ兄の横顔。

 神も悪魔も恐れなず、自分自身の目的のためになら、いかなる犠牲も厭わない、傲慢かつ不遜、そして絶対的な意思を持つあの男。

 太古の昔より存在し、異能の神秘を探求してきた魔術師達の長い歴史においても、なお史上最高の魔術師と唄われたあの男。


 ──兄、さん──


 こみ上げてくる熱い感情、その熱い思いは深い眠りの湖の底から、英次の意識を強引に呼び起こした。



「……ここは?」


 英次が目を覚ましたのは、屋敷の客間のベッドの上だった。


「よかった、英次さん。目を覚ましたんですね」


 メイド服を着た少女が、英次に声をかけてくる。その表情には、安堵の色がみえた。

 彼女の名は結城葵。この屋敷で働く家政婦──いや違う。彼女は本来は決して家政婦などではない存在なのだが、特区での規則上、屋敷専属の家政婦として登録されている。


「お加減はいかがですか? すごい熱だったので、心配しちゃいました」


 慣れた手つきで英次の頭の濡れタオルを交換してくれる葵。回復魔術の副作用とはいえ、ひどい熱だった。 額にのせられていた濡れタオルから察するに、葵は英次の体を心配して、つきっきりで看護してくれたのだろう。


「……すまない葵。また〝君〟の家を壊してしまった」


 先日の傭兵との一件を謝罪する。彼女の大切な家を、一部とはいえ壊してしまったのだ。この屋敷の居候に過ぎない英次は、謝罪する必要があった。


「いいんです。それに、お掃除は好きですから」


 はにかみながら、そう答える葵。

 どんな逆境に陥っても、不平一つ言わずに前向きにに対応する彼女の性格が、英次にはまぶしかった。ノーマルである彼女が特区で暮らすことは、英次には想像もできないほどの苦労があるはずだが、どんな時でも葵はそんな苦悩を少しも感じさせたことがない。


「……あの人形はもう片づいたのか?」


 屋敷を包囲していた人形は、術者を失った以上ただのガラクタだった。手際のよい葵のことだから、とうに処分してしまったろう。


「はい。異能力者さん達が扱う人形って、ずいぶんと高く売れるんですね、引き取り値を聞いてびっくりしちゃいました」


 ちょっぴり悪戯っぽく笑う葵。その笑顔は、普段の大人びた彼女の表情とは違い、年相応の子供っぽさを残していた。彼女の言う通り軍事用の人形は、高額で取引されているはずだ。とはいえちゃっかり売り払った葵の対応に、英次は内心苦笑した。


「庭に捨てられた人形は、いわばこの家の財産だ。代金は君が受け取ってくれて構わない。家の修理代にでもあててほしい」


「はい。ありがとうございます。いつも十分過ぎるお給料を頂いている上に、申し訳ありません」


「気にしなくて良い。この家の借り賃と君の労働の対価としては、少なすぎるくらいだ。

 ……お母さんの具合は、どうだ?」


「はい。様態は良いみたいです。異能を応用した医療って、凄いんですね。さすがは特区の病院です」


 確かに異能の力を医学に応用している特区の医療技術は、外地である日本のそれを凌駕していた。とはいえノーマルである葵が、手放しで喜んで良い事だとは英次には思えなかったが。


「すまない、いろいろと不自由な思いをさせてしまって……本来なら君も弟とお母さんと一緒に、ここで住み、学校に通っているはずなのに」


「いいんですよ。英次さんのおかげで母は入院できていますし、私は無理でも弟は高校に通えるかもしれませんし」


「そうか……弟さん、圭くんは元気か?」


「はい。圭は、最近家で猛勉強しているんですよ。『ノーマルでも成績優秀なら高校に行ける。僕は必ずいい大学をでて、お姉ちゃんを楽させてあげるんだ』って……少し前まで異能適正試験に落ちた事にショックを受けていたみたいで、ずいぶん落ち込んでたんですけど、毎日遅くまで図書館で勉強しているみたいです」


 必死で勉強している弟の姿を思い浮かべたのか、再びうれしそうにはにかむ葵。屋敷で働く献身的なメイドの姿しか英次は知らなかったが、家では長女として一家を支える別の顔があるのだろう。

 だがその無邪気な笑みは、英次にとっては心苦しいものでもあった。

 異能適性試験──子供の頃に『異能』の有無を選別し、将来を決定してしまうという吐き気がするほど醜いシステム。こんな世界ができてしまったのも、葵の母が病を得た原因も、突き詰めて言えば十年前に兄を止めることができなかった自分に責任があるのだ。

 ならば一日でも早くこの状況を打破し、特区を、東京を彼らのためにも取り戻してやらなければならない。それが今の自分に課せられた責務だった。


「葵。俺は、どのくらい寝ていたんだ?」


「人形の襲撃から、もう一ヶ月になります。その間ずっと眠ってらしたので……レオさんは、心配しなくて大丈夫と言ってましたけど……」


 通常、点滴もせずに一ヶ月も寝ていれば栄養失調と水分不足で死んでしまう。だがそれはあくまで一般人の話である。人智と神秘の中間に存在している英次たち魔術師は、そんな常識の範疇に含まれない。

 英次が眠りながら行使していたのは、〝深淵の眠り〟と呼ばれる異能。代謝を停止させた仮死状態におくことによって、身体の回復を図る蘇生魔術だった。老化さえも停滞し、あらゆる負傷からも蘇生することができるという。

 事実、英次の胸の傷は完全にふさがり、消耗し尽くした魔力は再び蓄積されつつあった。


「そうか、一ヶ月か──」


 傭兵との戦いのことは、もはや彼の脳裏にない。

 思考を支配していたのは、兄との戦いの記憶。


 ──届かなかった──


 ただの一矢も報いることなく敗れ去った戦いの記憶が、脳裏をよぎる。

 今の自分の力では、決してあの男には届かない。命を削っても、未来を代償にしてさえも、あの男に達する事は困難なのか。


 ──だが、いかなる手段をもってしても、兄さんとの差を埋めなければならない。例えどんな犠牲を支払う事になろうとも──


 思い知らされた絶望的なまでの実力の差をかみしめながら、悲痛な覚悟を固める英次。

 だがそんな思いは、一階から響いた聞き慣れぬ異音によって打ち切られた。


「あの音は何だ?」


「えっと……その……」


 めずらしく歯切れの悪い葵を、英次は静かに見つめる。

 葵は上目遣いにこちらをうかがいながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「……真奈美ちゃんの、お友達が、おみえになっているんです」


「真奈美の、友達だと?」


 予想外の葵の回答に、英次は思わず声を荒らげた。

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