第18話 真の神秘
「お願い、もうやめてください! 屋敷も、私も、もういいですから!」
突然葵が瀕死の英次の前に立ち、そう懇願する。その瞳は涙で滲んでいた。
それは降伏の申し入れでもあった。
目の前で行われているのはこの屋敷をめぐっての争いなのだ。つまり所有者である葵が諦めれば、それは戦いの終結を意味する。
戦いは終わった──
英次たちは負けたのだ。屋敷を引き渡せば、傭兵たちも英次の命までは見逃してくれるはず。しかし、
「葵! 勝手なことを……言うんじゃね」
瓦礫の中から、英次の声がする。
「……大切な物を……大事な物を、闘いもせずに諦めてるんじゃ、ねえ。負けてるんじゃ……ねえ!」
口から大量の血を吐き出し、かろうじて立ち上がる英次。すでに彼の胸筋は砕かれているのか、シャツからは真紅の血液が止どめもなく流れ出していた。
「こんな……こんな醜い世界に……〝あの男〟が創った世界なんかに、屈してたまるか!」
一人咆哮する英次。その叫びの矛先は傭兵達に対するものではない。
その場にいない誰かに向けられたであろうその思い、ボロボロその強烈な意志に悶えるその姿は、手おいてなお猛る獣のよう。
この場で転校生だけが、理不尽な世界の〝秩序〟や〝常識〟に屈してはいなかった。
だが、どんな強い力を持とうとも、異能の神秘を持っていようとも、たった一人では、世界には、秩序に抗うことなど叶うはずがないのだ。
激流には、いずれは押し流されしまうしかない。
「ふふ……よかろう。降伏による幕引きなど、つまらんからな。
魔術師殿の姿勢に敬意を表し、我も全力を持って応じよう!」
あくまで抗う転校生。その姿勢に傭兵だけが、嬉しそうに唇を歪め、
その刹那、
世界から音が、消えた。
突然訪れた静寂、環境を読み取るに事に長けた絵里ですら、その異変の正体に気づくのに時間がかかった。
いたるところから鳴り響いていた無機質な音、屋敷を取り囲んでいた無数の人形たちの動きが、一斉に止まったのだ。
代わりに、傭兵の姿が真夏の陽炎のようにゆるりと揺らぐ。肉眼でも確認できるほどに集約された濃密な魔力。
──そうか、彼の異能は人形使い。今まで人形の操作にあてていた魔力を、自分の体内に戻したのか──
この男の正体は、魔力をまとった肉体で戦うことを得意とする戦士。拳に集約された禍々しいまでの魔力が、嫌が上にもそれを証明していた。
──いけない、これは、まずい──
悪寒が、絵里の眉間から背筋を突き抜ける。
英次がいくら多彩な技を持つ魔術師とはいえ、この圧倒的な魔力に勝てるわけがない。そもそも彼の傷は、癒えていないのだ。
「いかに抗おうとも、この世は弱肉強食。世界は強きモノのものなのだ」
雷の様な怒声が轟くや否や、両拳を胸元で構えながら英次に向けて猛然と突進する傭兵。その巨体はまさにヘビー級のボクサー──いや拳に込められた魔力をも考慮すれば、その圧力は戦車に相当しうる。
だが英次は身じろぎもせずに、
「身の程知らずの異能(にわか)者共め! 世界が強きモノのもの、だと? ならば見せてやる、真の神秘(つよさ)の深淵を!」
雄叫びをあげながら、迫り来る巨体に向けて立ち上がり、
〝──全方位から穿つ弾丸──〟(オール・ディレクション・マシンガン)
直後、地面に散らばっている無数の瓦礫を、弾丸として傭兵めがけて打ち出した。
「ぬう!」
先ほどの学校で身につけた弥生の異能。さすがにこの攻撃は想定外だったのか、傭兵は驚きの声をあげる。
コンクリートの片はマシンガンの様に次々と傭兵に襲い、轟音とともにおびただしい粉塵が舞う。
まさにコンクリートの弾幕、サンドバッグのように叩きつけられる石片の嵐、至近距離であの衝撃をうけては、並みの人間では抗じきれまい。
(ダメ、弱い!)
しかし、何度かこの技を眼前でみた絵里には理解できた。
以前と違い、弾丸の威力がまるで劣っている。少なくとも、来栖に向けられたときのそれとは比べるべくも無い。あの時は一撃一撃がまるで小さな流星のごとき必殺の威力を伴っていたが、いまのはせいぜい散弾程度の威力。
加えてコンクリート片が想像以上に柔らかいらしく、衝撃は傭兵の体にぶつかっても悪戯に粉塵を巻き上げるだけで、その鋼のような肉体を覆う魔力の鎧に有効打を与えているとは思えず──
「ぬん!」
刹那、弾丸のジャブを耐え切った傭兵の巌の様な右ストレートが、噴煙の中から蛇の様にくりだされる。
恐るべき魔力が込められたそれは、激突すれば確実に英次の胸板を砕き、今度こそ内臓を残らずミンチ肉にかえるだろう。
胸部を穿つ必殺の一撃。だが英次は避けることをせずに、まるで相手の動きに呼応するかのごとく前進し、自らの右拳を繰り出す。あまりに無謀なその姿。
体躯も威力も、そして込められた魔力も、比較にならない拳同士が空中で交差し──
「!?」
刹那、傭兵が大きく右肩を崩した。いや右肩だけではない。傭兵の体全体が、足元から大きく崩れたのだ。
予想だにしない事態に瞠目する傭兵。
そしてその原因に気付いたのは、その場では絵里だけだった。
──床が、あれはトレロの──
見紛うことはありえない。忘れたくても忘れられないトレロの〝異能〟である〝変幻自在の領域〟(ファンタズム・テリトリー)。
水飴のように変質した床が、傭兵の軸足をずらしたのだ。
まさか、これを仕掛けていたのか! 炎もコンクリートの散弾も、トレロの異能を隠す煙幕に過ぎず、本命は変質させた床のトラップ。
姿勢を崩した傭兵の右拳を紙一重でかわした英次は、貂の様な早業でその懐に飛び込み──
「応(オウ)!」
残る魔力の全てを叩き込んだ右拳を、傭兵の胸板に叩き込んでいた。
〝──カウンター──〟
敵の攻撃に合わせることで相対速度を高め、防御反応を想定していない部位を強打する技術。その本質はボクシングの試合においても、魔力を用いた格闘戦においても変わらない。
──貫いた──
相対速度により数倍に加速された英次の拳が、魔力防御の希薄な傭兵の胸部を貫いたのが絵里の瞳にもはっきりと確認できた。英次の魔力は、猛毒の異物と化して傭兵の胸部を駆け巡り、その内臓を一瞬のうち粗挽き肉に変えた。
威容を誇った傭兵の胸は砕かれ、その場に崩れ落ちる。
「これが、魔術師……」
強い、いや……巧い。そう巧いのだ。
圧倒的な力の差を前にしても、それを補う技術と応用力を併せ持った存在。力の差は異能力者達と比較するべくもない。だがそれ以上に、それを使いこなす技量もまた桁違いだった。
マナハザード以前から神秘の力を秘匿してきた魔術師の技量を前に絵里は、ただただ嘆息しかでなかった。
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