第8話 死地

弥生の叫び声を聞くよりも早く、隣の教室で息を潜めていた絵里は脱兎のごとく飛び上がり、その場を逃走しようとした。


 ──アレは、おかしい。

 ──尋常じゃ、ない。

 ──普通じゃ、ない。


 絵里が知る異能の〝常識〟から外れたモノ。複数の力を扱う、禍々しい異端者。


 ──逃げなくては、とにかく遠くへ逃げなくては。

 ──殺される、殺される。

 ──こんなところにとどまっていては、確実に殺される。

 ──一刻も早く、一秒でも早く、とにかくここからにげなくては。


 だがおかしい。焦る気持ちとは裏腹に、絵里の目の前の景色はまるで何かに固定されたかのように、さきほどから変わらなかった。


 ──おかしい、どうやっても動けない。立ち上がれない。


 そもそも最初の奇襲が失敗した時点で、絵里は逃走する手はずだったはずだのに。


 ──なぜコンナトコロで動かずにいたのか?

 ──なぜコンナトコロから逃げずにいたのか?


 よほど気が動転していたらしい。その理由に気づくのに、信じられないほど時間がかかった。


「あ、足が……!?」


 絵里の足を捉えているのは、変質した教室のタイル。

 それはまるで水飴のように変質し、彼女の右足を拘束していた。


(これは、アイツの〝異能〟! まさか、ここまで届く、広範囲の力!?)


 全身を冷たいものが駆け巡る。

 マントだけでなく、周辺の物質をも変化させる異能力者。絵里がここに隠れていることすら、奴にはお見通しということか──

 その事実を理解した直後、弥生たちとを隔てていた教室の壁が、砂のように崩れ落ちた。

 隣の教室で、仰向けに臥せっている弥生の姿。

 その傍らで、深紅のマントを右手にしたトレロは──

 不吉な光をたたえた禍々しい瞳で、まっすぐにを見つめていた。


「ウフフ……さっきから覗いてたでしょ? でも注意しなきゃね。覗いているつもりで覗かれていることは、割とよくあることだからね♪」


 恐ろしいほど美しく歪んだ笑み──それは逃れ得ない不吉さを伴っていた。


──逃げなくては、何としても、絶対にこいつから逃げなくては──


 心の奥底の魂が、そう叫んでいた。


──逃げられない、どうやっても、こいつから逃れることはできない──


 だが同時に、本能は悟っていた。決してこいつから逃げることはできないということを。

 避けられない運命。それは絶対的な死の直感をともなって、絵里の未来を阻んでいた。


「あ……あはは……」


 絵里の口からは力ない笑みがこぼれる。

 最悪の運命。それらを目にし、その場に屈み込む。緩んだ瞳からは大粒の涙がとめどめもなく流れる。

 今の自分の姿は見るも無様だろう。だがそんなことを気にして何になる。〝恥ずかしい〟そんなことを気にする対象である自分は、今日ここで、確実に消えるのだから。

 〝凶兆〟──決して手を出してはいけないモノに、自分は触れてしまったのだと。

 先ほど見たあの黒猫は、二度もそれを知らせてくれていたのだ。

 不吉な黒猫など迷信にすぎない、そう思った自分が愚かだったのだ。


 ん、黒猫?

 いつの間にそこにいたのだろうか、絵里の目の前に一匹の黒猫がたたずんでいた。

 トレロ以外、動くモノのいないはずの世界、その中で、黒猫はまるで自分だけが違う絵の中の生き物のように小さく机の上に跳ね──


「にゃ~」


 場違いなほど間の抜けた声で、大きく鳴いた。

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