12-①

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 花音には勤務が終わったらすぐに向かい、山岸さんを先に上がらせ、須藤が多少遅れたとしても十七時半には家に着けると伝え、約束の木曜日を迎えた。

 花音が最後のチャンスと言ったのは、もちろん花音の母親がこれから夜勤に入ることがなくなり、一晩中衝動の自由を利かせられる機会と巡り会いづらくなることも一つだったが、今日が八月の末であり、来週から高校生は本分に引き戻されるという現実も、間違いなく認識としては共有されていた。この夏はそういう意味でも、僕たちに残された最後の時間であり、最後のチャンスだった。一般的な異性関係と比べれば、僕たちは著しく踏み込みが足りなかったかもしれない。昼の光に感情を同化させても、夜の闇に情熱を果たし合うことはなかった。手と手が深くむつみ合っても、それが一つになることはなかった。

 しかし今日、僕たちは漸く、ビギナーを卒業できる。その先にある、未知の世界に踏み込める。僕は桃源郷を後にし、花音は楽園の門を叩いた。僕は淑女たちへの幻想に耐え、花音は狼たちの毒牙を振り切った。そうして僕たちの前には、何もない地平線が広がっている。比翼連理を背中に刻んだ者たちのみにゆるされた、新しい世界を前にしている。僕たちは、その中で生きている人たちを知っている。自分に自信が持てなくても、世間から何でもない人間に見られても、身を寄せ合い、心を預けられる相手がいる。そんな相手だから、何もない地平線でも生きていける。いつまでも、目に見えない何かを共有し、幸せという着地点を見失わないでいられる。それが、僕たちの「最後のチャンス」の本当の意味だった。

 朝の準備を終え家を飛び出し、明暮の目的地に向かう。その道中、蝉の鳴き声と子供たちのはしゃぎ声が、明確に聞き分けられた。残り数日の定めだと知りながら、生き様を鳴らし続ける希望の叫びと、これから訪れる混沌を知る由もない、無垢で淡白な自暴の嘆き。僕には、二つの音がそう聞こえた。このせ返る炎天下では、純粋に生きたい者が、純粋に生きられるように形作られている。二つの間に、具現化では解決できない垣根が建てられている。

「おはようございます!」

「あ、おはよう」

 バックヤードに入ると、中には山岸さんがいた。今日は通常通り店長はまだ来ていなかったため、山岸さん一人で休憩用の椅子に座っていた。

「いやー、今日も暑いですね」

「暑いね。それで明奈が毎日機嫌悪いから、ウチも大変よ」

「そうですか。相変わらず楽しそうですね」

 そう言いながら更衣室に入りカーテンを閉めると、山岸さんが椅子から立ち上がる音が聞こえた。

「ねえ橋内くん、もしかしてこの後、花音ちゃんと会う?」

 思わず手に持っていたシャツを落とし、それを拾おうとしてかがんだ瞬間、バランスを失った僕の身体は派手な音を立てて、狭い空間の中で崩れ去った。

「え!? ちょっと大丈夫!?」

「す、すいません……」

 急いで体勢を立て直し、一旦手に持っているシャツを着て、更衣室のカーテンを開けた。

「ってことは、大正解ってわけね」

「まったくもってその通りです」

 目の前にいる山岸さんが浮かべたあどけない満面の笑みは、今まで見てきた──もちろん、花音を含めた──あらゆる女性の笑顔より、視覚に突き刺さった。

「なんで、わかったんですか……?」

「そんなの、今日会ってからの橋内くんのテンション見てれば一目瞭然よ」

「ああ、そういえばそうですね」

 確かに、朝の挨拶はいつも通りとしても、その後の世間話を僕から仕掛けることは今までほとんどなかった。毎回毎回、僕は山岸さんが差し伸べてくれる手に掴まり、僕たちの大恩人であり師範である彼女の生き様を、心に灯していた。

「それで、今日はどこに行くの? 着替えながらでいいから」

 カーテンだけは閉めようとするも、山岸さんが手で遮る。少々迷ったが、時間もあまりないため先ほどのシャツをもう一度脱ぐと、山岸さんは僕の上半身から目を逸らさず、ただただ答えを待った。

「花音の家です。バイトが終わったら、そのまま行くことになってて」

「え? ってことはお母様と一緒に夜ご飯食べるって感じ?」

 バッグから店の制服を取り出そうとするも、山岸さんの視線が一つ一つの行動を妨げる。まるで監視の域を超え、縄で縛られ拘束されたかのように。

「いえ。花音のお母さんは今日、夜勤でいないんです」

 少しだけ、彼女の視線が逸れるのを感じた。

「もしかして、一晩中?」

「はい。一晩中」

 視線が段々と腹部の方へと下り、股間の中心で留まった。

「もしかして、そういうこと……?」

 急激に羞恥心が込み上がり、偶然を装い背中を向けたくなったが、彼女の前では、それはできなかった。

「たぶん、そういうことです」

 はっきりと、そう答えた。

 それを聞いた山岸さんは、再び満面の笑みを浮かべた。先ほどとは種類の違う、山岸さんだけがこの世界に産み落とせる、優しい微笑みだった。

「優しく、してあげるのよ……? 女の子はあなたが思っている以上に、……自分で思っている以上に、繊細なんだから」

 込み上がってくるものは、確信に換わった。

 花音のことを心から愛するという、心からの確信に。

「はい。本当に、何もかも山岸さんのお陰です」

 そして、山岸さんをどこまでも追い続けるという、心からの意志に。

「ううん。私はただ、大好きな二人が行くべき道に進んだのを見届けただけ。何もしてないよ」

「いえ。山岸さんは間違いなく、花音と僕にとって──」

「ちょっとー、お二人さん」

 不意に聞こえた声の方向は、開いたバックヤードのドアだった。

「時間過ぎてるんで、そろそろ出てきてもらえません?」

 朝の勤務の五十代の女性が、比較的穏やかな口調で僕たちを促す。時計を見ると、既に九時を二分過ぎていた。

「あ、すみません! すぐに出ますので!」

「はいはいー。それじゃ、よろしくねー」

 特に嫌味を吐くこともなく、女性は売り場に戻っていった。僕も急いで身支度を済ませ、売り場に向かう山岸さんの後についていく。

「今日は、あなたが先に上がりなさい」

 ドアの前で立ち止まった山岸さんは、後ろ姿のままそう言った。

「え? いや、上がるのはいつも通り山岸さんが先に──」

「違う。そういう話じゃない」

 鋭い言の葉がドアに跳ね返され、僕の瞳に合図を送る。

「初めての前は、お互いを最後に見つめ直す時間がとっても大切なの。だから、できるだけ早く彼女の元に行ってあげて」

 両手を後ろに回し、長い髪を一つに結う。いつもやっている何気ない彼女の仕草を、こんなにも近くで目の当たりにするのは初めてだった。

「私には、それができなかったから」

 まとめ上げた一房の髪の先端が、そっと、僕の頬に触れた。触れた頬から、そっと、甘い香りがした。

 そのときの五感が消えることは、永遠にないはずだった。


 強烈な日光が燦燦さんさんと降り注ぐ日中を冷房の利いた室内でやり過ごし、時間が過ぎるのを待った。かと言って、時間が長く感じたわけではない。それなりの忙しさと穏やかな接客に恵まれ、何より、今日の店長と山岸さんは一緒に居て心地が良かった。店長はおそらく未だに僕と花音はただのアルバイト仲間だと信じているだろうが、そんなことは関係なしに、今日の店長は社会人として切羽詰まるものが特にないらしく、暇そうにしている僕に冗談を飛ばしに来るなど、所々でちょうどいい相手になってくれた。

 一方で山岸さんも、そんな男二人に愛想を施しつつ、変な気遣いや緊張感を一切見せずに、いつも通り振舞ってくれた。それが、僕にとって最も望んでいた接し方だった。有頂天になっている僕を憐れむことなく、それでいて、口に出すことはないが、確実に見守ってくれているという安堵感を充溢じゅういつさせて、僕たちの背中を押してくれた。そのような泰然さを、今、僕の器は至極必要としていた。日中に溢れ出る興奮を鎮め、然るべく夜を迎えるための情緒に辿り着くともしびは、彼女のあおほのお以外はあり得なかった。山岸さんだからこそ、僕の心の隙間を知っている。花音と再会する前の僕を知っている山岸さんだからこそ、どこまでも導いてくれる。何度も道を踏み外しかけた僕を、何度も心の中で間違いを犯してきた僕を、その対象となり、自らがはずかしめられていると解っていようとも、灯で居続けてくれた山岸さんだからこそ、僕の、本能に触れてくれる。

「ゴミ捨てに行ってきますね」

「うん、ありがと」

 十六時半を過ぎた頃、店内の可燃ゴミを一つにまとめた袋を持ち、店の裏にあるゴミ置き場へ向かう。ゴミを入れる用の倉庫を開けて中に放り込み、少しの間、しばし浴びていなかった太陽の光に身体を浸した。

 花音は今、何をしているのだろうか。勤務がない日は勉強していると言っていたが、果たして打ち込めているだろうか。心のどこかで、いや、心の表面で、花音もまたすさぶ情動を抑えられず、勉強など手につかないでいる状態でいやしないかと、痛みも恐れも、それらを乗り越えた境地にたたずむ快感も、あれやこれやと想像する間に時間が過ぎ、気付いたらドアの前に意中の相手がいた、そんな夕方の比翼連理を思い描く僕が、暮れなずむ陽の光を浴びていた。

 一瞬だけ、生命の源に眼を向ける。一瞬だけ、世界の全てが視えなくなる。暑さは不思議と不快感には結びつかず、ただただ強烈なエネルギーを身に纏うに留まった。焼けた肌がオレンジ色に変色し、雲の気まぐれと並行して、黒みを帯びた肌色と交差する。熱気は依然として渋滞しているが、それを生み出す御天道は、雲の気まぐれに随分振り回されているようだ。このまま沈んでしまえと願っている夏嫌いたちも、もはやマイノリティではないだろう。

 すると、その希望が叶ったように、青空は雲で覆い尽くされた。太陽は居場所を失い、神々しい威光も過去の遺物と化した。淀んだ大気が大きな顔をし始め、蝉の鳴き声と子供たちの燥ぎ声を一緒くたにして、おびただしいうめき声の中へと放り込む。風はなく、鳥もほとんど飛んでいない。人間の智慧ちえの結晶が生み出した構造物だけが、ひたすら僕の眼に映った。機能的でわかりやすく、とてもよくできている。僕たちが豊かに暮らせるように、僕たちが、心を取り乱すことのないように、有用で、便益で、そして、具現化という目に見えるフィクションによって、この文明を支配している。本当に、よくできた世界だと実感する。

 ここにいる意味を見出せなくなった僕は、店に戻った。五分以上行方をくらませたにもかかわらず、山岸さんは何も言わなかった。

「ねえ、もしかして降ってきそうじゃない?」

 むしろ、僕の隣に立ち、揺れる空模様を通わせてくれた。

「そうかもしれませんね。最近はなかったんですけど」

「傘、持ってきてないなー」

 そうこうしているうちに、予報を無視した雨は本当に降り始めた。最初は小降りの様相だったが、勤務が終わる十分前になると立派な本降りに成長し、僕たちの足取りを重くさせた。

「橋内くんはどう? 折り畳みとか持ってきてる?」

「いえ。荷物減らしたかったんで置いてきたんですけど、完全に裏目に出ましたね」

「まあでもどうせシャワー浴びるでしょうし、そんなに問題ないのかな。あ、そっか。もうそろそろ上がらなきゃだね」

「うーん、それなんですけど、たぶん少し待てば弱まると思うんで、待たせてもらってもいいですか? せっかく気利かせてくれたのに申し訳ないです」

「うん、わかった。全然大丈夫だよ。じゃあ、私も一緒に少し待とうかな」

 その一方で、会話は弾んだ。客足もパッタリ途絶えたため、奥でのんびりしている店長を余所に、残り時間を有意義に使った。

「うわー、やべえやべえ」

「あ、お疲れ様です」

 勤務終了五分前になって、全身ビショビショに成り果てた須藤がやって来た。

「途中で降り出してきちゃってさ、ホント運悪いわ」

「ドンマイっす。だけど時間には間に合ったんすね」

「近くでちょっと寄り道してたからな。てかどうせお前、雨止んでからゆっくり帰るんだろ? ホント、呑気に生きてる奴は羨ましいねえ」

 久しぶりに、須藤と冗談風の会話を交わした。意図的に避けていたわけではないが、花音がやって来てからは、彼との無駄話に不快感を抱いていたことは否めない。

 だが今日に限っては、その不快感も気にはならない。嫌悪の種は、今はもう僕の腕の中に包まれている。

「じゃ、そろそろ上がろっか」

「そうですね」

 それから三分後に須藤がバックヤードから出てきて、ちょうど十七時に引継ぎは完了した。店長も一転、珍しく売り場に出ていったため、バックヤードは出勤時と同様、僕と山岸さんの二人きりになった。

「雨、どれくらいで止むかねー」

「雨雲レーダーだと五分くらいで止みそうですけど、別のだと雷雨予報もあるみたいです」

「そっかー。最悪傘買っていかなきゃかなー」

 着々と帰りの準備が進み、ほとんど同じタイミングで帰り支度が整った。そうした自然の流れから、僕と山岸さんは初めて、共にバックヤードのドアを開けて帰宅の途に就こうとしていた。

「お疲れ様でーす」

「お、お疲れ。一緒に帰るなんて珍しいね」

「ま、そういう日もあるんですよ」

 店長の茶々を軽く受け流す山岸さんの背中についていき、須藤と再び軽い挨拶を交わして、自動ドアを潜り抜けた。

 外に出ると、最初に見た予報通り雨は小降りに落ち着き、雲の所々にはかすかな光さえ漏れ出ていた。

「もしかして今、チャンスかな?」

 一旦自動ドアから屋根のある部分を並行して移動し、二人で空の様子を垣間見る。

「確かに、これくらいなら行けそうですね」

 それを聞くと、山岸さんは一息ついて、僕の方を振り返った。

「私、行くね。子供たち待ってるから、できるだけ早く帰らないと」

「あ、はい! お疲れ様でした!」

 屋根の外に躍り出ると、これなら行けると確信したのか、今朝の満面の笑みを餞別せんべつにしてくれた。

「またね、橋内くん。来週、楽しみにしてるよ」

 花音と会う前の最後の一人が、この人で良かった。心から、そう思った。

「それと、頑張って。お互い、後悔だけはしないように」

 心から、去っていく彼女の背中に慕情を抱いた。そこに刻まれた、二羽のカワセミと美しい月桂樹を目に焼き付けて、僕は僕の道を歩き出そうとした。

 しかし、そのときだった。たちまち雨が激しさを取り戻し、僕は身動きが取れなくなった。

 一旦店内に避難しようとも思ったが、妙な胸騒ぎが僕をそこに縛り付けた。もう、後戻りはできない。止まることはできても、戻ることはできない。僕はそうやって、花音と行くところまで行き着いた。それならば、これからもそう生きるべきだ。そんな滑稽な決心が、篠突く雨と共に落ちてきた。

 凄烈な轟音ごうおんが、近くを走る車の音を掻き消す。一瞬まばゆいた閃光に遅れて、おぞましい雷鳴が亀裂から乾坤けんこんへと響き渡る。身動きなど、取れるはずがない。今、この中に身を置ける人間などいるはずがない。この中で踊り狂えるとすれば、将軍が王になることを予言した三人の魔女か、門の下で人間の業の深さを知る一人の下人か、それとも、海のような優しさと粉雪のようなあどけなさを併せ持ち、悠久の美で永遠の泰然さを創り出す、僕の心の奥底にみ続けた、たった一人の淑女だけ──

「もおー、どうしてこうなっちゃうかなー」

 そうして、一人の女性が、僕の前に現れた。

「でもよかった。橋内くんがまだ居てくれたことが、不幸中の幸いね」

 靴のかかとから髪の毛一本まで、何もかもを濡らし尽くしたその人が、僕の目の前に現れた。

「……ここまでビショビショだと、さすがにちょっと恥ずかしいね」

 柄のないライトブルーのカットソーも、白くて薄いワイドパンツも、その中で透き通る、初めて目にした小さな下穿きも、何もかもが濡れていた。

「どうしたの……?」

 そんな彼女を、僕はひたすら見つめていた。

 その上空では、如何いかなる英雄の──たとえヘラクレスであっても──目をも閉ざしてしまうような燦爛さんらんたる稲妻が、全知全能の命を受けて世界を白く染める。

「山岸さん──」

「ひっ……!」

 僕が口を開いた瞬間だった。

 隣のビルの避雷針にいかづちが直撃し、狂い果てた轟音と共に、人間の本能に裁きを授けた。

「ちょっと、ついてきてもらっていいですか?」

「え……?」

 山岸さんの返事を待たず、僕はゴミが置いてある店の裏へと歩き出した。

 天の川を噛み砕いたような夕立が、二人の身体を容赦なく貫通している。

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